事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

フレデリック・ワイズマンの初期作品を観て睡魔に襲われた話~事実と私たちの間にあるものについて~

フレデリック・ワイズマン全作品上映!何とも心躍るニュースではないか。ここ最近、公私にわたってロクな事が無い中で、小沢健二のニューアルバム発売と同じぐらい、嬉しい出来事だ…本当に俺の人生はなぜこんなに苦しみに満ちているのか…風邪はひくし、金は無いし、白線一時不停止で違反切符は切られるし…街を歩いていても何の悩みも無さそうなクソガキがヘラヘラ笑っているのを見るだけで猛烈に腹が立ってくる…
まあ、そんな事はどうでもいい。フレデリック・ワイズマンといえば、現存する最も偉大なドキュメンタリー作家と称される、アメリカ在住の映画監督である。一切の説明や政治的アジテーションを省き、ただ事実そのものを積み重ねる事で、複雑化したアメリカ社会の現実に拮抗しようとする、彼の大量の作品群は、撮影対象が比較的メジャーな『パリ・オペラ座のすべて』以降の近作を除いては、我が国ではほとんどソフト化されていない。この文化的貧困に対抗しようと、心ある人達によってワイズマンの全作品上映が幾度か行われてきたが、今回は関西での開催となる。これがいかに重要な事であるか、お分かり頂けるだろう。
とはいえ、いくら全作品が上映されるからといって、その全てを観る事は時間も金も無い自分には不可能である。また、どんどん長大になっていく最近の作品を連続で観るのもなかなか荷が重い。という訳で、比較的上映時間の短い、初期の作品に的を絞る事に決め、手始めに『チチカット・フォーリーズ』と『病院』を観に行く事にした。
で、結論としては「もう1度観たい!」という事に尽きる。非情に奥深い作品だから理解するには何度も鑑賞しなければならない、という理由ではない。単に映画が始まった瞬間から猛烈な睡魔に襲われ、ずっと眠気と闘いながら映画を観ていたから、である。ここ最近、風邪をひいていて風邪薬を飲んでいたからなあとか、やっぱり昼飯を食べてから観に行ったのはまずかったなあとか、色々と言い訳を考えてみたものの、結局、自分は女の裸も拳銃も血飛沫も出てこない映画を観ると退屈で眠くなる馬鹿なんじゃないか、という気がしてきた…何が文化的貧困だよ、お前の頭の方が貧困じゃねえか。そういえば、レビューで褒めた『アド・アストラ』も、実際には必死に眠気を我慢していたっけ…
ただ、私自身も何もしなかった訳ではない。『病院』を観ている時など、靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、足の裏に最近できた怪我を爪でいじくり回し、激痛によって眠気を吹き飛ばしたぐらいだ。そのせいで、歩けないぐらいに傷が悪化したが…こっちが病院に行きたいぐらいである。まあ、『病院』については信じられないくらい大量のゲロを床にぶちまけるヤク中患者が登場し、ものすごくインパクトがあったので、そのおかげで目が覚めたのかもしれない。そいつは「公園で見知らぬおっさんから何だかよく分からない薬をもらったので飲んでみたら気持ちが悪くなった」と、ちょっと信じられない事を言うのだった…
とまあ、『病院』にせよ『チチカット・フォーリーズ』にせよ、アル中やヤク中、精神異常者などものすごい人々が次々と登場するのだが、それでも私が眠たくなったのは、結局はその人たちをスクリーン越しに観ていただけだからだ。ワイズマンに同行して実際に現場にいたら、もう怖くて眠気なんて吹っ飛んでいただろう。当たり前の話だが、現実をそのまま自分の眼で見る事と、ドキュメンタリー映画を観る事の間には天と地ほどの隔たりがある。
これは結構、重要な事なのではないか、と思う。ワイズマンのデビュー作『チチカット・フォーリーズ』はマサチューセッツ州にある精神異常犯罪者の為の矯正院の日常を追った映画だが、その衝撃的な内容から一般上映が禁止され、永年に渡る裁判の末に1991年にようやく上映が許可されたいわくつきの作品である。映画のラストには、「この矯正院の環境は現在では改善されてますよ~」という、取って付けた様なメッセージが挿入され、それは上映を許可する引き換えに裁判所から義務付けられたものらしい。要するに、矯正院の受刑者に対する扱いがあまりにも非人道的で、人権を重視するアメリカ合衆国のイメージダウンに繋がる、と司法が恐れたのだろう。
だから、この映画を観て「こんなに酷い事がまかり通っていたなんて許せない!」と憤る人もいるに違いない。確かに、マサチューセッツ矯正院矯の対応は、今日の人権意識から見るとめちゃくちゃだ。医学的根拠も無く抗鬱剤を大量に投与し、食事を拒否する者には手足を押さえつけて鼻から栄養剤を無理やり流し込む。いかなる理由からか、受刑者のほとんどは全裸で生活している。ほとんど家畜同然の扱いと言ってもいい。しかし、この矯正院の実態に対し怒りを覚える事ができるのは、やはり事実と私たちの間にスクリーンが存在してるからではないか。この映画には、11歳の少女をレイプし、更には自分の娘にまで性的暴行を働いた性欲異常者が登場する。私たちがスクリーンの向こう側、矯正院に実際にいたとすれば、彼を精神を病んだ男として許す事ができるだろうか。一人の患者として誠意をもって扱えるだろうか。
フレデリック・ワイズマンは、マサチューセッツ矯正院を指弾する目的で映画を撮ったのではない。そんなメッセージはひとかけらも映画の中に込められていない。そこに存在するのは単なる事実の集積だけなのである。その残酷さに対して、眼を背けるのも怒りを覚えるのも睡魔に襲われるのも観客の特権だが、私たちが成し得たのは、あくまでスクリーン越しに事実の一部をのぞき込んだだけに過ぎない、という事は忘れてはならない。

…ほとんど寝てたくせに偉そうだな。