事件前夜

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ロヘナ・ゲラ『あなたの名前を呼べたなら』

 

あなたの名前を呼べたなら [DVD]

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  • 発売日: 2020/02/05
  • メディア: DVD
 

「んもう!この2人付き合っちゃえば良いのに!」

と、観客全員がやきもきしてしまう程、本作の主人公ラトナとアシュヴィルはお似合いのカップルである。しかし、2人の関係はなかなか進展しない。もちろん、想いを寄せ合う男女の恋が様々な障害によって簡単に成就しないのは恋愛映画のお決まりで、だからこそ観客は劇中の人物に感情移入し、最終的な決着ーそれがハッピーエンドであろうとなかろうとーにカタルシスを覚えるのだが、インドを舞台にした本作では、その障害は極めて困難で複雑なものとなっている。故に、本作は恋愛映画のフォーマットをなぞりつつ、大規模な経済発展を遂げたインドが未だに抱える歪みを露わにする。

では、その障害とはどの様なものなのか。単に、主人とメイドの身分違いの恋、というだけではない。その程度であれば、『プリティ・ウーマン』などいくらでも先行作がある。資産家と娼婦が結ばれるという方が主人とメイドより敷居は高いぐらいだろう。

ただ、こうしたシンデレラストーリーは結局、社会的に高い階層(主人=資産家)が低い階層(メイド=娼婦)を受け入れるか否かにかかっている。いくらジュリア・ロバーツが魅力的な女性であっても、リチャード・ギアが薔薇の花束を持って訪れなければ、物語は成立しない。昨今、我が国で量産されているティーン向け(スクール・カースト)ラブストーリー、例えば非モテ女子がイケメン男子と結ばれる、といった作品群も同様の構造を有している事が分かるだろう。つまり、シンデレラは王子様から声が掛かるのを待ち続けているのである。

しかし、『あなたの名前が呼べたなら』の主人公ラトナは、こうした王子様からの求愛を受ける訳にはいかないのだ。インドにおいては法的、宗教的な根拠が与えられた身分制度が確立していたが故に、制度が廃止された現在も、根強い差別が残っている。ヴァルナと呼ばれる身分制度と、そこから自生したジャーティと呼ばれる地縁集団の掟に縛られたラトナは、19歳で結婚し、数ヶ月後に夫に先立たれ未亡人となった。生まれ育った村の因習により、彼女は別の男性と再婚する事ができない。自由を剥奪され、夫の親族の所有物となったラトナはメイドの給金から夫の親族へ仕送りを続け、私の人生はもう終わった、と自嘲する。

そして、アメリカの自由思想を享受してきたアシュヴィルですら、彼女の苦悩に応える事ができない。なぜなら、ラトナのメイドとしての労働や下層民としての暮らしを看過し、享受してきたからこそ、彼を含むムンバイ富裕層の暮らしは成り立っているからだ。だから、ファッション・デザイナーを志すラトナが、高級ブティックに入った途端、警備員を呼ばれ追い出されてしまうのは当然なのだ。ムンバイ富裕層にとって、ラトナは商品の消費者ではなく商品そのものなのである。

この様に、ラトナを囲う2重3重の障壁は、インドの社会構造と強く結び付き、その経済発展をも支えている。こうした矛盾を抱えたまま、王子様とシンデレラが結ばれる事はないだろう。その呪縛から逃れる為に、ラトナはアシュヴィルを「旦那様」ではなく「アシュヴィル」と名前で呼ぶ。それはささやかだが、自らを軛から解き放ち、失われた尊厳を回復する為の、とても大切な一歩なのかもしれない。

 

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マイ・フェア・レディ [Blu-ray]

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インドと同じく厳格な階級社会であったイギリスを舞台にした、ジョージ・キューカー監督のミュージカルコメディ。オードリー・ヘプバーン演ずる花の売り子イライザが、音声学者であるヒギンズ教授に自らの下町言葉を矯正される事によって、貴婦人へと変貌し社交界デビューを果たすが、その代わりに自らのアイデンティティを失ってしまう。彼女を慕う青年フレディに向かって、自身を「ミス・ドゥーリトル」ではなく「イライザ」と呼ぶように命ずる彼女もまた、名前こそ自分が今、ここにいる唯一の証であると認識しているのだ。