事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ジェイソン・ライトマン『タリーと私の秘密の時間』

 

タリーと私の秘密の時間 セルBD [Blu-ray]
 

わが国では、子供の産めない人間は非生産的な存在という事になるらしい。なるほど、国家の存続の為には労働者が必須な訳だから、その労働者を生産する出産や育児もまた、生産活動の一形態と言えるだろう。しかし、その様な観点から見るなら、労働者人口が増える恩恵は社会全体が享受するのに、そのプロセスは母親の全面的な負担を前提に成り立っているのはいかにも不公平だ。だから、これは純粋にプロレタリア的な問題なのだが、出産や育児は本質的に喜ぶべき事であり、それは無償の愛によって為されなければならない、という「常識」が抑圧となり問題を隠蔽してしまう。
もちろん、こうした母親の負担を軽減する為、世の中には出産や育児をめぐる様々なツールや有益な情報が用意されているだろう。本作でも、シャーリーズ・セロン演じるマーロが様々な育児グッズを利用する場面が描かれる。しかし、負担を軽減する筈のこうしたツールや情報=「こうするといい」はいつの間にか「こうしなければならない」に変化し、母親に対する新たな抑圧となっていく。例えば、マーロが使用している子供の夜泣きを通知するスピーカー。この便利グッズによって、母親は子供が夜泣きしたら必ず起きなければならない、という義務を負わされるのである。映画の冒頭とラストで描かれる、長男に対する毎日のブラッシングは最たるものだろう。発達障害に伴う感覚過敏を治癒するという目的で始められたこの行為は、今や当初の目的すら閑却され、ただ「しなければならない」行為として繰り返されているばかりだ。
さて、この映画にはタリーという万能のベビーシッターが登場する。彼女は育児はおろか家事までも完ぺきにこなし、そのおかげでマローはすり減った自分を徐々に取り戻していく。ベビーシッターもまた、先ほど述べたツールのひとつなのだから、他人に金を払って母親が救われるのならばそれでかまわない訳だ(そもそも、保育園や学校だって育児や教育を肩代わりしている訳である)。しかし、本作が提示するのはもっと複雑な価値観である。終盤に明かされるある事実によって、タリーの完璧な仕事ぶりが、痛ましい抑圧の集積へと反転していく。ストーリーテリングの妙と映画が持つテーマが見事に合致した好例と言える。

結局、「しなければならない」事から人はどうやっても逃れる事ができない。重要なのは、それを分かち合える人がそばにいるかどうかなのだ、と映画は示唆して幕を閉じる。さ、子供の飯でも作るか。