事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ『ブレードランナー2049』

 

「同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事能わず」本作の主人公、ブレードランナーである新型レプリカントのKは、日々の過酷な労働や人間から受ける迫害によって、常に疲れきった表情を見せる。そんな彼の唯一の慰めは、ホログラムであるJOYとの交流だ。しかし、映像に過ぎない彼女と肉体的な触れ合いを交わす事は不可能である。人々が性奉仕用のレプリカント-セクサロイドと性行為を行う時代において、レプリカントである彼は、実体を持たない虚像と戯れるしかないのだ。映画の中盤、自宅に招いたセクサロイドとJOYが同期する事により、「JOYの精神+セクサロイドの肉体」という存在が実現し、彼らは初めてベッドを共にするのだが、しかし、その同期は完璧ではなく、スクリーンにはある時にはJOYが、ある時にはセクサロイドが映り、彼女たちは完全な同一体ではなく二重写しの存在として描かれている。この同期の不完全さは、いかなる理由によるものだろうか。冒頭に挙げたのは夏目漱石虞美人草』の一節だが、これは西洋の古代哲学者の言葉と紹介されている。倫敦に留学した漱石は、カルチャーショックにより一時ノイローゼにまでなったそうだが、彼が衝撃を受けたのは、この西洋における厳格な占有原理だったのかもしれない。実際、この原理こそが、本作の主人公Kには過酷な運命として立ちはだかる。結局、本作は『ブレードランナー』の正当な続編であり、KとJOYの物語ではなく、あくまでデッカードとレイチェルの物語なのだ。映画的な役割においても、前者は後者の不完全なコピーに過ぎないのである。それが映画史に名を残すオリジナルと、本作の関係を皮肉混じりに表している、というのはうがった見方だろうか。