事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

石川慶『ある男』

ご都合主義的なプロットに難はあるが確かな演出力を感じさせる堅実な一作

石川慶の前作『Arc アーク』が海外SFが原作という事もあって、かなり奇を衒った作りだったのに対し、本作は長編デビュー作『愚行録』にテイストの近い、ウェルメイドなサスペンスである。住宅街で起きた一家惨殺事件をめぐる関係者たちの証言によって事件の様相が様変わりしていき、やがて隠された真相が炙り出されていく、という原作者の貫井徳郎が得意とする多層的な謎解きが特徴だった前者に対し、今作は比較的ストレートなプロットになっている。原作が純文学作家の平野啓一郎という事もあるのだろうか、妻夫木聡演じる弁護士が別人に成りすましていた男の正体を探り当てるまでの展開は少々ご都合主義が過ぎるかな、という気がしないでもない。しかし、プロットがシンプルな分だけ演出の巧みさが際立つ作品となった。
小説でも映画でも、ミステリーとは現在の立場から過去(=謎=真実)を探る、という構造を持つ物語であり、『愚行録』も『ある男』も妻夫木聡演じる探偵役が過去を探求し、隠された真実を探ろうとする。従って、観客も探偵役の眼を通して世界を見ていく事になるのだが、あくまで観察者の立場にいる筈の探偵役がその立場を超えて事件に積極的に介入していくタイプのミステリーも世の中には存在し、『愚行録』もその中のひとつだった。その時、探偵が現在の立場から過去の事件を探る、というスタティックな構造は瓦解し、事件は現在進行形のものとなる。『愚行録』終盤のカフェの場面に私たちは衝撃を受けた。探偵役として事件を調査していた妻夫木聡が、事件の様相を著しく歪めてしまう立場へと踏み込む生々しい瞬間を目撃したからである。
『ある男』にも探偵役が調査を行っている事件に飲み込まれていく、という展開が用意されている。ただ、それは『愚行録』の様にミステリー的な仕掛けと結びついている訳ではなく、物語全体をを貫くテーマとしてエピローグ的な形で提示されるに過ぎない。この辺りにもミステリー作家と純文学作家による資質の違いが窺われるが、見え見えとも言えば言える結末へ向かって収斂していく本作に、なぜ私たちは引き込まれてしまうのか。それは曰く言い難い不穏さでスクリーンを満たしつつ、要所で物語の輪郭を形作るエピソードを挟み込む石川慶の手腕によるものだろう。『愚行録』でも『蜜蜂と遠雷』でも、この監督は物語からは浮いた様なシュールな映像を不意に挿入し、映画全体のトーンをガラリと変えてしまう事があるが(『Arc アーク』はそうした映像センスを前面に押し出した作品だった)、本作では刑務所で妻夫木聡柄本明が面会するシーンの曰く言い難い不気味さにその意図を感じる。まさにここから、主人公はやがて自らを喪失していく奇妙な隘路に入り込んでいくのだ。

イ・サンヨン『犯罪都市 THE ROUNDUP』

何といっても、マ・ドンソクは人から怒られている姿がサマになるのだ

『新感染 ファイナル・エクスプレス』と共に俳優マ・ドンソクのイメージを決定づけ、一躍スターダムに押し上げた『犯罪都市』、待望の続編である。監督はカン・ユンソンから前作で助監督を務めていたイ・サンヨンに交代したが、プロデュースをマ・ドンソク自身が務めいる。やはり自身の出世作という事もあって並々ならぬ想いがあるのだろう。で、前作がどんな話だったかというと…観たのがずいぶん前の事なのでほとんど覚えていない。今作では前作のキャラクターが再登場したりとファンサービスも盛り込まれていたのだが、正直こんな奴いたっけ?という感じで全然ピンと来なかった…まあ、どれもムサいおっさんばかりだったので覚えていなくて当然だが…
それでは、『犯罪都市』で確立したマ・ドンソクのイメージとはどういったものなのか。簡単に言えば「気は優しくて力持ち」という事である。我ながら、ものすごくバカみたいな事を書いているが…私は以前、マ・ドンソクについて「人を素手で殴る姿に説得力がある」と評した。しかし、これは彼の魅力の一部分であって、もうひとつ忘れてはならないのは「人から怒られて申し訳なさそうにしている姿に説得力がある」という点なのだ。単にパワー系アクション俳優としてだけではなく、スクリーンを通じて伝わってくる繊細さこそ、彼が「マブリー」と呼ばれ多くの人から愛される理由なのではないか。
犯罪都市』シリーズは、『ダーティハリー』的な「暴力刑事もの」の範疇に入るのかもしれないが、マ・ドンソク演じるソクト刑事はハリー・キャラハンの様な傲岸不遜な人物として描かれてはいない。むしろ、上司からお小言を喰らってペコペコと頭を下げる情けなさが強調されていた。前作は実話をベースにしているという事もあり、韓国に巣くうチャイニーズマフィアによる非道な振る舞いが、かなり残酷な表現も交えて描かれているのだが、それを中和する様なかたちでソクト刑事と上司であるイルマン班長のユーモラスなやり取りが挿入される。マ・ドンソクばかりが注目される本シリーズだが、イルマン班長を演じたチェ・グィファのコメディリリーフとしての貢献度も見逃せない。
続編である『犯罪都市 THE ROUNDUP』でも、映画全体のバランスは変わっていない。ただ、単に口やかましいだけの上司という感じだったイルマン班長のキャラクターがより掘り下げられ、ソクト刑事との掛け合いも大幅に増えた結果、本作は『リーサル・ウエポン』の様なコミカルなバディものとしての性格をより強める事となった。もちろん、前作ゆずりのハードな残酷描写や激しい肉弾戦も健在で、まさに韓国エンタメ映画の最前線といった趣である。既に3作目、4作目の製作が決定している本シリーズはマ・ドンソクのフィルモグラフィにおいて(クリント・イーストウッドにおける『ダーティハリー』の様に)重要な位置を占める事になるだろう。

 

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犯罪都市(字幕版)

チャイニーズマフィアと韓国警察の死闘を描いた前作はもう少しリアリティに重きを置いた作りだった。

コゴナダ『アフター・ヤン』

記憶は引き継がれ、残された者の想いは募る

私は映画を観た後にメモを取ったりしないので、鑑賞後すぐならまだしも、時間が経ってから映画の感想を書こうとすると内容を全く思い出せず難儀する事が多い。この『アフター・ヤン』が公開されたのは2022年10月21日である。約3ヵ月が経とうとしている訳だ。だから正直、ほとんど何も覚えていない…坂本龍一の音楽に乗せて、フォトジェニックな映像が映されては消えていく、という事ぐらいしか…何しろこの映画、近未来を舞台にしてはいるが、サイエンス・フィクションとしての興趣を追及している訳ではないからストーリーにメリハリが無い。ロボットとクローンというSF的モチーフを使用して、人生のふとした瞬間に浮かび上がる微細な感情をすくい取り、それを骨格にプロットを組み立てる、というのが監督、脚本、編集を手掛けたコゴナダの意図するところなのだろう。作りからして淡い印象しか残らない映画なのだ。
前作『コロンバス』でも同様の手法が採られていたが、そちらではオハイオ州コロンバスに建てられたモダニズム建築と登場人物の心理が並列して描写されていた。心に傷を負った男女がコロンバスに立つ建築物を見て癒されていく、というとものすごく陳腐な言い方だが、要するに建築物と人の感情がリンクしている様な映画を作り手が指向していたのは間違いない。しかし、建築というものに対して抱く想いというのは人それぞれなので、そこに共感できない人は何のこっちゃ分からない。難解と言えば非常に難解な映画ではあった。
『アフター・ヤン』は、一応SFという体裁をとっているので『コロンバス』に比べてエンタメ色は強まった。そもそも、故障して動かなくなったロボットが保存していたメモリー(記憶)がテーマになっているから、観客も容易に自分の体験に置き換える事ができる。身近な人が亡くなった時、その人が蓄えてきた記憶を覗いてみたい、という想いに駆られた人は多いだろうし、故人が見ていた世界や風景を残された者が受け継いでいけるのなら、それはある種の不死性を人間が獲得した、という事になるだろう。だから本作はテクノロジーによって人間が死を乗り越えていく物語とも受け取れる訳で、そういう意味でケン・リュウの小説なんかが好きな人はおお、けっこうSFしてるじゃん、と思うかもしれない。
ヤンというこのロボットの眼をカメラになぞらえるなら、彼が見ていたのは長いひとつの映画なのだとも言える。ならば、ヤンの体内に残されたメモリー追体験する主人公ジェイクは一人の観客であり、今スクリーンを見つめている私たちの似姿なのではないか。こうしたメタフィクション入れ子構造を採用する事によってコゴナダ監督は、映画が人々に与える想いや意志とは何なのか、という問いを投げ掛ける。それは、映像作家として映画監督のドキュメンタリーも手掛ける彼が永遠に追い掛けている謎なのかもしれない。

 

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ベタですがロボットを主役にしたヒューマンドラマという事で。

S・S・ラージャマウリ『RRR』

とてつもないスケールと熱量で語られるインド独立をめぐる神話

この記事の草案を練っているタイミングで、『RRR』劇中歌の「Naatu Naatu」がゴールデン・グローブ賞で歌曲賞に輝いた、とのニュースが飛び込んできた。『バーフバリ』二部作の圧倒的な完成度で世界を驚愕させた、S.S.ラージャマウリ監督の最新作はインドのみならず世界中で大ヒットとなり、日本でもインド映画としては最も高い興行成績を記録している(これまでの最高記録は『ムトゥ 踊るマハラジャ』)。それを受けてIMAXでの再上映も決定したそうだ。
それにしてもなぜ、私たちはラージャマウリ監督の作品に魅了されるのか。大きな理由のひとつとして、彼の作る映画が様々な面で規格外であり、それがハリウッド的な映画文法に慣れた人々にとって新鮮に映る、という事が挙げられるだろう。そもそも、いかなる映画にも歌や踊りのシーンが必ず挿入される、というインド映画のフォーマット自体が(アメリカやヨーロッパの映画に比べて)過剰な訳だが、ラージャマウリの作品はそれだけに留まらない。VFXを多用したド派手なアクションはもちろん、王道を抑えつつ超展開をみせるプロット、アップやスローを多用したコテコテの演出など、メガ盛りてんこ盛りが常である。監督自身が「私の作品はかなり大仰で、やりすぎ、行き過ぎな感じがあると思う」と語っているとおり、彼の作品はインド映画の範疇すら超えた過剰さをはらんでいるのだ。
個人的に、ラージャマウリの作品は1980年代に最盛期を迎えた香港映画の様な無茶苦茶さと途轍もないパワーを継承している様に思う。そして、共にイギリスの植民地であったインドと香港から世界を席巻する映画が続々と生まれた事をポスト・コロニアリズム的な観点から読み解く事も可能だろう。インドも香港も共にハリウッドからの影響を強く受けながら、自国文化を映画のモチーフとして積極的に取り入れる事でアイデンティティを再発見し、西洋文化民族主義を折衷した、極めて特異な作品世界を形成してきたからである。西欧文化に対するアンビバレントな想いと自国のルーツを再び獲得しようとするナショナリズムが結びついた時、ゴールデン・ハーベスト社のカンフー映画が生まれたとするなら、ラージャマウリの作る史劇もまた、そうしたナショナリズムと無関係ではないだろう。
本作は、実在の独立運動指導者コムラム・ビームとアッルーリ・シータラーマ・ラージュを主人公にした冒険活劇の構造を有するが、架空歴史ものとしての要素も盛り込まれている。実際にはその生涯で出会う事のなかった2人の英雄をラージャマウリは虚構の世界では友人として結びつけた。彼らの友情と愛国心がイギリス帝国主義を打ち砕く本作のプロットは、単なるエンターテインメントの枠を超えた、インド独立をめぐる新たな神話なのである。エンディングに登場する5つの肖像画は、ヴァッラブバーイー・パテールを始めとして全てインド独立に尽力した政治家や活動家たちだが、本作の主人公であるビームとラーマもまた、彼らと並び称される神々の1人なのだ、という事なのだろう。その意味で、エンディングにラージャマウリ監督自身が登場しているのも、自分がインドの新たな神話を紡ぐ語り部なのだ、という自負のあらわれなのかもしれない。

 

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ドニー・イェンを一躍スターダムに押し上げた『イップ・マン』シリーズの2作目は、終戦後イギリス領となった香港が舞台となる。日本、イギリス、中国と様々な国に蹂躙され続ける香港に新たな神話は生まれるのだろうか。

原田眞人『ヘルドッグス』

岡田准一の存在感が映画に暴力の予感を呼び込む

2023年の1月を既に迎えたが、2022年に観た映画の感想が全然書き終わっていない。とりあえず、それらを全て書き終えてから年間ベスト10について考える事にする。

私は原作小説を読んでいないが、あらすじを見て何となく『このミステリーがすごい!』大賞受賞作家がKADOKAWAから出す小説っぽいな、と思ったら本当にそうだった。原作者の深町秋生は2004年にこのミス大賞を受賞しているので、ベテランと言ってもいいキャリアの持ち主である。中島哲也監督の『渇き』もこの作家のデビュー作が原作らしいが、不勉強で全く知らなかった。というか、中島哲也作品も観たのは『下妻物語』ぐらいなのだが…
恥を忍んで言えば、原田眞人の監督作も私はそれほど観ている訳ではない。だから何となくのイメージでしかないのだが、この監督の映画は基本的に会話劇なんだと思う。ほとんどの作品で脚本を手掛けているという事もあり、台詞も凝った言い回しがふんだんに取り入れられ、何を言っているのかよく聞き取れない事もままある。また、状況説明的な台詞も多くアクションよりも言葉で物語をリードしていく、という印象が強い。その会話劇的要素と物語とが上手く融合すると『駆込み女と駆出し男』の様な傑作が生まれ、上手くいかないと『金融腐蝕列島 呪縛』の様な空疎な作品ができてしまう訳だ(今思えば、あの映画の空虚っぷりは日本経済の実態を表現していたのかもしれない)。
今作のストーリーは非常に複雑である。いかにも『このミス』大賞作家らしい、先行作品を換骨奪胎した盛り盛りのプロットと二転三転する先の読めない展開、一癖も二癖もある登場人物、私は1時間を過ぎたあたりでお腹がいっぱいになってきたのだが、とにかくこの凝りに凝りった物語を観客に理解させる為にだろう、説明的な台詞もどんどん投入されていく(その割に何を言っているのかよく聞き取れないのは相変わらずだ)。
状況説明に要する時間が長くなればなる程、会話シーンが多くなり、映画の動きは止まってしまう。これはアクション映画としては致命的な構造である。しかし、『燃えよ剣』に続いて主演を務め、格闘デザインも兼任した岡田准一の存在感が映画を引っ張っていく。躍動する彼の肉体が、多くの言葉を尽くして説明される物語世界を凌駕して、映画のあらゆる瞬間に暴力の予感を埋め込んでいくのだ。物語の中盤に展開するカラオケスナックのシークエンスはどことなくクエンティン・タランティーノの映画を彷彿とさせる。タランティーノの冗長な会話場面が私たちを魅了するのは、そこに宙吊りにされた暴力の予感を感じ取ってしまうからだ。近年はドメスティックな作風に傾きがちだった原田眞人のフィルモグラフィの中で、本作はその国際性において白眉を為す。氏の敬愛するサム・ペキンパーサミュエル・フラーのシンプルで力強い作品に比べるといかにもToo Machではあるが、その過剰さを引き受けた上で運動の連鎖だけで映画を成り立たせようとする、矛盾した欲望が私たちを熱くさせる。

 

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『このミス』大賞受賞作家である柚月裕子KADOKAWAから刊行した(!)小説を白石和彌が映画化。映画オリジナルの続編も公開されており、そちらは感想を書いています。

セリーヌ・シアマ『秘密の森の、その向こう』

「わたしとあなた」のままで「母と娘」である事

これは大傑作!決して長くない上映時間の中に、映画の素晴らしさが全て詰まっている!全人類が観るべき永遠のマスターピース!私もぜひ、もう1度観返したい…というのも、昼飯にラーメンを腹いっぱい食べたのが災いしたのか、映画が始まった瞬間から猛烈な眠気に襲われ、ほとんど内容を覚えていないからだった…
もちろん、途中で眠たくなったからといってその映画がつまらない、という訳ではない。しかし、世の中には眠たくなる映画と眠たくならない映画が存在するのは確かで、セリーヌ・シアマに限らずヨーロッパ系の映画は静かなタッチの、アートっぽい作品が多い(少なくとも日本で紹介されるのはそんな作品ばかりである)から、派手な展開の多いハリウッド映画に比べて寝てしまう危険性が高い様に思う。だから、どんな映画でも冒頭に鼓膜が破れるくらいの大音量で爆発音が鳴り響く、という演出を取り入れたらどうだろうか。
そんな事はどうでもいい。睡魔と戦いながらでも何とか最後まで観終えたのだから、何がしかの感想が湧いた筈である。それを思い出そうとしているのだが…何も思いつかない…何となく、ビクトル・エリセっぽいなあ、とか…いや、そんな事もないか…
ビクトル・エリセと同じく、セリーヌ・シアマの映画は非常にシンプルなプロットが核となっている。それは「ガール・ミーツ・ガール」とでも言うべきか、主人公がある女性と出会う事で世界の複雑さに対抗する術を見出していく物語である。「わたし」を絡め取る複雑な糸をひとつずつ解きほぐしていけば、最後には「わたし」と「あなた」の繋がりだけが残るだろう。『燃ゆる女の肖像』とは、画家とモデルの「見る―見られる」という支配的な関係性が、やがて「見つめ合う」2人の女の絆へと変わっていく、視線のドラマだった筈だ。従って、『秘密の森の、その向こう』で出会う2人の少女は、「母」と「娘」という関係を取り巻く複雑さから逃れ、「わたし」と「あなた」として巡り合う。その邂逅の舞台こそが「森」なのであり、その「向こう」に開かれた湖へとボートを進める経験を経て、少女たちは「わたし」と「あなた」であると同時に「母」と「娘」である事が可能となる(セリーヌ・シアマの映画において、「水」は女たちを解放へと導く重要なモチーフだ)。
本作は「タイムリープ」というSF的モチーフを採用しているものの、プロットはこれまで以上に単純明快でセリーヌ・シアマ作品のエッセンスが凝縮した様な作品である。日本のアニメに影響を受けたと公言しているだけあって非常に観やすく仕上がっており、よほどの馬鹿でない限り、途中で眠くなる事はないだろう。

 

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本作は『となりのトトロ』や『思い出のマーニー』といったジブリ作品に影響を受けたらしい。物語的には後者に近いと思われるが私は未見。

バルディミール・ヨハンソン『LAMB/ラム』

信じがたいほどの怪異は、北欧映画「らしさ」の中に取り込まれていく

本作が監督デビュー作となるヴァルディミール・ヨハンソンは、これまで「ゲーム・オブ・スローンズ」や『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』などで特殊効果を担当していたらしいが、なぜかサラエヴォタル・ベーラから映画製作の講義を受けた、という謎の経歴を持つ。その他、ガス・ヴァン・サントアピチャッポン・ウィーラセタクンからも指導を受けたらしいが、エンタメ指向と実験映画精神が混ざり合った、複雑な作家性を持っているのかも知れない。
以前、『ハッチング ー孵化ー』というフィンランドのホラー映画を紹介した際に、あまり北欧映画らしさを感じない、という感想を述べた。じゃあ北欧映画のらしさって何だよ、と問われた際に、はっきりとした答えを出すのは難しいが、例えばアイスランドスウェーデンポーランドの合作である本作『LAMB/ラム』を模範回答として挙げる事ができるだろう。どちらもモンスターが生まれる怪異を扱っているにもかかわらず、両者のアプローチは正反対である。『ハッチング ー孵化ー』でははっきりと恐怖の対象であった異形の存在が、『LAMB/ラム』では子供のいない夫婦の心を慰める存在として描かれるからだ。怪異が恐怖の対象として描かれていない以上、『LAMB/ラム』をホラー映画と呼ぶのは無理があり、むしろ「桃太郎」や「かぐや姫」といった民話に近い。美しい自然の風景とつつましやかな牧羊家の暮らしが静謐なタッチで描く本作には、同じくアイスランドを舞台にした羊飼いたちの映画『ひつじ村の兄弟』に似た印象を抱く。北欧について知識がない故の雑な括り方かもしれないが、『LAMB/ラム』は物語の中心に羊頭人という異形の存在を据えつつも、いかにも北欧映画らしい佇まいを具えている様に思う。
もちろん、怪異を怪異として認識する人間がいない訳ではない。主人公のイングヴァルとマリア夫妻は羊が産み落とした羊頭人をアダと名付け、実の子の様に可愛がっていたが、インクヴァルの兄であるペートゥルだけはアダを見て驚き、恐怖を覚える。当たり前と言えば当たり前の感情だが、しかし、その感情も長続きはしない。共に生活を送る内にペートゥルはアダと打ち解け、やがて実の姪として扱う様になるからである。夫妻と義兄が羊の頭を持った子供を易々と受け入れてしまう、という流れは奇異に映るだろうし、前述した様にそれこそが本作のホラー映画としての機能を失調させているのだが、実際に映画を観るとこの展開がごく自然な事の様に思えてくるから不思議だ。アダという存在は、自然と本作の北欧映画らしさの中に取り込まれていく。イングヴァルやマリアの行動が、『ひつじ村の兄弟』に登場する年老いた羊飼いが羊たちを家族の様に扱っていたのとそれほど変わりがない様に見えてくるのだ。
だからこそ、本作のラストの展開には違和感を覚える方も多いだろう。それはあまりにもB級映画然としたオチに思えるし、映画全体から浮いていて、いささか取って付けた様な印象を受けるかも知れない。しかし、みんな仲良く羊頭人と一緒に暮らしましたとさ、で終わられてもこっちが困る訳で、この様な意外性を用意しないと物語を上手く閉じられない、という事情があったのだろう。また、このラストによって子供に対する親の執着、というテーマがはっきりと示され、実はその点においてだけ『ハッチング ー孵化ー』と共鳴し合うのだった。

 

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ひつじ村の兄弟(字幕版)

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  • シグルヅル・シグルヨンソン
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第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で受賞に輝いたアイスランド製のヒューマンドラマ。40年来口をきいていなかった羊飼いの兄弟が、伝染病による羊の殺処分をきっかけに絆を取り戻していく姿を描く。