事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ファニー・リアタール&ジェレミー・トルイユ『GAGARINE/ガガーリン』

孤独な青年の想像力が、老朽化した団地を一隻の宇宙船に変える

パリ東郊、旧ソ連の宇宙飛行士の名が冠せられたその団地は1963年の落成以来老朽化が進み、パリ五輪の開催を前に解体される事が決定した。2014年、映画の題材を探す為にパリを訪れていたファニー・リアタールとジェレミー・トルイユは、友人の建築士から取り壊しが決定した団地を題材に映像作品を撮って欲しいと依頼される。彼らは解体前の集合住宅「シテ・ガガーリン」を舞台にオリジナルの脚本を書きあげ、短編映画を製作した。本作はその短編映画を更に拡張し、長編映画として完成させたものである。映画の大部分は実際の団地内で撮影され、実際の住人たちが出演しエキストラを務めた。「シテ・ガガーリン」は本作の撮影終了を待って2019年に解体されている。跡地には環境を重視したエコ団地が建設予定らしい。
映画の製作にあたり、ファニーとジェレミーの両監督は、団地の住人たちに丁寧な取材を行い、彼らの暮らしぶりを物語の中に織り込んでいる。例えば映画の冒頭、主人公ユーリがベランダから望遠鏡を覗く場面などは、全てドキュメンタリーショットで構成されているらしい。そこに映し出されるのは、団地周辺に住む人々のありのままの姿だ。その意味で本作は、パリ五輪を間近に控えたフランスが抱える経済格差や社会的分断を切り取った、リアリスティックな作品とも言えるのだが、一方で彼らは自らのイマジネーションで老朽化した団地を塗り替え、ノスタルジックでリリカルな世界を作り上げてしまう。我々が直面している過酷な現実と、宇宙飛行士に憧れる孤独な青年が作り上げた夢想。それらが「ガガーリン」という名前を通じて結びつき、やがて宇宙へと解き放たれる。そのスケールの大きさと、それを可能にしたポエジーこそが映画『GAGARINE/ガガーリン』の魅力と言えるだろう。
ところで、パリ郊外に建てられた団地にロシアの宇宙飛行士の名前を付ける、というのはいかなる理由によるものか、不審に思われる方も多いだろう(まあ、日本にだって長崎オランダ村とか志摩スペイン村とか色々あるのだが)。実は、この団地の建てられた地区は長らくフランス共産党が市政を担ってきた経緯があり、もともと旧ソ連とも親交が深かった。周辺の道路には「ロベスピエール通り」「ブランキ通り」とフランスの革命家の名前が付けられている。オープニングで引用されているのは、1963年の団地の落成式にガガーリンが招かれた際の記録映像だろう。
従って、当時の「シテ・ガガーリン」は単なる集合住宅以上の意味を託されていた筈だ。それは社会主義共産主義の掲げる理念を表すモニュメントであり、人種や国籍、貧富の差に関わらず、あらゆる人々が集い、それぞれ助け合いながら共生する地上のユートピアの筈だった―もちろん、その様な理想が社会主義者たちや共産主義者たちの抱いていた夢に過ぎなかった事を、現在の私たちは知っている。「シテ・ガガーリン」はだから、夢見る建築として2019年まで微睡んできたとも言えるのだ。解体が決定した後も団地に隠れ住み、自給自足の生活を続けるユーリの夢想の舞台として、これほど似つかわしい場所は存在しないだろう。
電力、水道、ガスといったライフラインを止められた団地の中で、ユーリは雨滴を集めて水を確保し、太陽光を電力に変換するコンバーターを開発する。更に室内に畑を作り、野菜を育てるまでに至るのだ。宇宙飛行士を夢見ていたユーリは、己の想像力と知識を駆使して、解体寸前の団地を快適なスペース・シップへと変えてしまう。突如訪れた生存の危機をあり合わせの材料と創意工夫で乗り切っていく、という展開はリドリー・スコット『オデッセイ』を思わせはする。しかし、火星に一人取り残されたマーク・ワトニーとユーノが決定的に異なるのは、『GAGARINE/ガガーリン』の主人公にはマークにとっての地球の様な、帰るべき場所が存在しない、という事である。彼の母親は離婚後、新しくできた恋人の元へ走り養育を放棄していた。「シテ・ガガーリン」が解体されてしまえば彼には行き場所が無くなってしまう。宇宙からの帰還を目指すマークとは逆に、地上の楽園から追放された青年は想像力の翼で宇宙へと旅立つしかなかったのだ。その翼は、彼を重力から―いや、地上のあらゆる軛から解放し、天高く舞い上がらせる。ガガーリンと同じ場所から眺めた現在の地球は、果たして彼の眼にどの様に映っただろうか。

 

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