ジェームズ・ガン『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』
スクリーンを躍動する肉体に全てを賭けるジェームズ・ガンの覚悟
もともと「DCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)」はマーベルの「マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)」に対抗すべく、DCコミックスのスーパーヒーローたちが集結する『ジャスティス・リーグ』の映画化を核にしてその周辺作品を制作していく、という目論見だった。しかし、先陣を切った初期3作品の評判がすこぶる悪く、興行的にも苦戦してしまう。その為、「DCエクステンデッド・ユニバース」は当初の方針を転換し、シェアード・ユニバースとしての仕掛けよりも単独作品としての完成度を重視していく事となった。その結果、バットマンの敵役を主役に据えた『ジョーカー』の様な傑作が生まれたのだから何が幸いするか分からない。もちろん、『ワンダーウーマン』や『アクアマン』、『シャザム!』といった従来路線のスーパーヒーロー映画も続々と作られていて、この後も『ザ・バットマン』や『ザ・フラッシュ』などの公開も控えているが、これらの作品についてもユニバース化を見越した大掛かりな伏線などは見受けられず、あくまでDCコミックを原作とした単独の作品として作られている様だ(もちろん、後から無理やりに繋げる事は可能だろうが…)。
DCフィルムズの当初の計画を頓挫させた初期3作品が、ザック・スナイダー監督の『マン・オブ・スティール』と『バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生』、そしてデヴィッド・エアーによる『スーサイド・スクワッド』である。ザック・スナイダーを起用したのは『ウォッチメン』の実績を買っての事だろうが、『エンド・オブ・ウォッチ』や『サボタージュ』など犯罪映画を得意とするデヴィッド・エアーに監督を任せたのは理由がよくわからない。確かに『スーサイド・スクワッド』はDCコミックスのヴィランたちが活躍する話だから犯罪映画と言えなくもないが…それにしたって脚本ぐらい他の人間に頼んだ方が良かったと思う。スーパーヒーロ映画が未経験だからという理由だけでなく、デヴィッド・エアーという人は基本的にいきあたりばったりの脚本しか書けないからだ。案の定、前作『スーサイド・スクワッド』は非常に抜けの悪い作品で酷評の嵐となった訳だが、これまた何が幸いするか分からないものでマーゴット・ロビーが演じたハーレイ・クイーンだけは評判が良く、『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』という単独作品が作られるまでの人気キャラクターとなった(この辺は『バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生』がガル・ガドットの演じたワンダーウーマンぐらいしか褒めるところが無かったのと似ている)。DC側もこのキャラクターを切るのは惜しいと思ったのだろう、『スーサイド・スクワッド』の続編制作に乗り出す。デヴィッド・エアーに代わって監督を務めたのは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』で一躍名を挙げたジェームズ・ガンである。ここでもDCはツイていたと言えるだろう。本来なら、ジェームズ・ガンは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』第3作の準備で忙しくそれどころではなった筈なのだが、Twitter上での過去の問題発言が原因で監督を降板させられたばかりだったのだ。後に、ディズニーはこの判断を撤回し、ジェームズ・ガンを監督に復帰させるのだが、とにかくこの冷や飯喰らいの期間が無ければ本作『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』は誕生しなかった訳である。
で、肝心の本作の仕上がりなのだが…何というか、ここまで才能の差が浮き彫りになるものか、と少々デヴィッド・エアーが気の毒になってしまった。監督と脚本を兼任しているのは両者とも同じだが、ひねりの利いたストーリーテリング、繊細なアクションの繋ぎ、的確な空間の捉え方、オタク受けするディテール描写まで、とにかく何から何までレベルが違う。その残酷なまでの差は映画の序盤、上陸作戦の場面を見るだけで一目瞭然だろう。前作ではのっけから登場キャラクターの紹介をダラダラと続け、早くアクションが見たい観客をイラつかせたものだが、ジェームズ・ガンはこのシークエンスで悪党たちの能力や経歴をスピーディなカメラ移動とアクションだけで簡潔に説明してしまう。しかも、最後に爆笑必至のひねりまで用意してあるサービスぶり。前作の主要メンバーだったキャプテン・ブーメランをここであっさり殺しているあたり、ジェームズ・ガンのデヴィッド・エアーに対する強烈な皮肉を見て取る事ができるだろう。観客は別に、架空のキャラクターの人となりを知りたい訳ではなく、そいつらが銃をぶっ放し敵をぶちのめすアクションを見たいのだ。もちろん、それは映画にとって決して不健全な欲望ではない。
おそらく、デヴィッド・エアーは大変に真面目な人なのだろう。彼は『スーサイド・スクワッド』を実写映画化するにあたり、コミックスのキャラクター達が実在するのだと観客に思い込ませようとした。その為に、お偉いさん2人が経歴書を見る、というかたちでご丁寧にキャラクターの経歴や能力を説明し、後半ではウェットなエピソードを挿入し人間的な魅力を与えようとしている。しかし、それは単なる「本当らしさ」であって、映画が獲得すべき「リアリティ」とは言えないのだ。
ジェームズ・ガンは、コミックスのキャラクターが実在するとはもちろん思っていないし、観客に信じ込ませようともしていない。そんなものは全て絵空事だと分かった上で、スクリーン上で躍動する ハーレイ・クインやピースメーカーの肉体こそが映画にリアリティを与えると信じているのだ。アクションの連なりが観客のエモーションを徐々に掻き立てる。だからこそ、お涙頂戴的なエピソードなど無くとも、終盤の悪党たちの決断に私たちは涙するのだ。折しもアメリカ軍のアフガン撤退が決定されたこの時期に本作が公開された事は意義深い。最初から最後まで馬鹿々々しさに徹した本作が不意にアクチュアルな問題意識を獲得する。その様な奇跡が映画には起こり得るのだ。
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『エンド・オブ・ウォッチ』のデヴィッド・エアーが監督した前作。この作品が成功していればベン・アフレックの主演、監督で『バットマン』の新作が作られ、ジャレッド・レトがジョーカーを演じていた筈。それはそれで観たかった気もするが…