事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ウェン・ムーイエ『薬の神じゃない!』

私は化粧品関連の資材会社に勤めているのだが、このコロナ禍の影響で売り上げは大幅に減ってしまい、冬のボーナスも支給されるかどうか分からない。そりゃ、非常事態宣言が発布されて誰も外出しなくなれば化粧なんかする必要もない訳で、それが解除されたところで、皆がマスクで顔の半分を隠している状況である。化粧というものの必要性がここまで薄れた時代は過去にも無かっただろう。同僚と話をしていたのだが、これから私たちは、人の顔をまともに見る事が無くなるのではないか。もしかすると、顔を他人にさらす事が非常に珍しい行為となった社会で生きていかねばならないのかも知れない。
中国国内で興行収入500億円の大ヒットとなった本作は、2014年に実際に起きた「陸勇事件」をもとにしている。安価な未認可ジェネリック薬をインドから密輸入して使用し、同じ病で苦しむ人々にも分け与えていた白血病患者が、偽薬販売の罪で逮捕されたこの事件は、中国の医療体制の脆弱さや保険制度の抱える不備を浮き彫りにした。中国では都市部と地方で大きな医療格差が存在し、また職歴などによって医療保険の負担額が増減する為、地方の貧困層が高額な医療費を支払えず治療を断念する、という事態が生じていたのである。この事件をきっかけに、高額な医療費について人々の批判が集まり、男の釈放を求める市民デモまで起った結果、検査院は起訴を取り下げざるを得なくなったという。
「陸勇事件」以降、中国の医療制度は少しずつ改善されてきている。法改正によって輸入医薬品に対する関税を引き下げ、未認可の薬品でも個人で使用する分には偽薬販売の罪に問わなくなったのは、本作に登場する様な悪辣な密輸販売業者を取り締まり、病に苦しむ貧しい人々が搾取されるのを防ぐ為だろう。こうした流れには、本作の大ヒットが貢献したとも言われている。何でも、中国共産党の偉いさんがこの映画を観て、非常に感銘を受けて党に働きかけたらしい。
映画が現実の政治を動かした、というのは大変けっこうな話ではあるが、本作が興行収入500億円という破格のヒットとなったのは、中国国内で関心の高い社会問題を扱ったから、という理由だけではない。俊英ウェン・ムーイエ監督は、これが長編デビュー作とは思えない手腕で、医療制度の歪み、社会的不平等という深刻なテーマを盛り込みながら、本作を一級のエンターテインメントに仕上げている。つまり、『薬の神じゃない!』は純粋に楽しい映画なのだ。
もちろん、本作のベースとなっているのは現実に起きた事件ではあるが、脚本も担当したウェン・ムーイエは、そこに(最近だと『ハスラーズ』の様な)虐げられてきた者たちがイリーガルな手法で一獲千金を狙う、いわゆる犯罪映画のテイストを加えていく。主人公チョン・ヨンの仲間に加わるのは、神父や踊り子、不良少年といった一癖も二癖もあるメンバーたち。そこから、仲たがいが生じたり、ちょっと色っぽい展開があったり、仲間の死があったり、様々な紆余曲折を経るうちに、当初は金儲けしか頭になかった主人公の心に、富める者が貧しい者を踏みつけにしてますます肥え太る社会への怒りが芽生え始めていく。
確かに、これは映画に限らずあらゆる娯楽作品で散々使われてきた定型のバリエーションに過ぎない。しかし、だからこそここには多くの人を魅了してやまない物語的強度というものが存在するし、社会的格差が広がり続ける現在では更なる切実さをもって人々の心に訴えかける事だろう。実話がベースになっている以上、ここに描かれているのは(多分に誇張されているとはいえ)単なる絵空事ではない。罪に問われるかもしれないというリスクを冒して苦しむ人々を救った男が実際に存在したのである。ジャンル映画らしい単純明快なプロットと、切実なリアリティを伴ったテーマ、本作はその両輪でグイグイと観客を引っ張っていく。実話をもとにした娯楽映画は巷に溢れ返っているが、その模範解答の様な作品と言える。
ただ、一見すると政府批判とも取れる様な内容の本作が、中国国内での公開を許され、更には中国共産党幹部の心をも動かしたのは、本作が娯楽映画のスタイルによってそのメッセージを糊塗したからでもなく、もちろん中国共産党の寛容さのおかげでもないだろう。物語の根幹にあるのは、あくまで医療の資本主義化に対する批判なのだ。利潤を追求する民間の製薬会社では、人命を守るという第一の目的が軽視されがちである。だからこそ、医療は公的な資源として国家が管理、統制すべきである。実は、本作に込められたメッセージは中国共産党にとって非常に都合の良いものなのだ。そうした観点を抜きに、映画が政治を動かした、という「美談」だけを讃えるのはいくら何でもナイーヴに過ぎるだろう。
で、冒頭の話に戻るのだが、私が本作で最も興味深かったのは、マスクを使った演出である。映画の序盤、主人公チョン・ヨンの営む強壮剤販売店に、リュ・ショウイーという男が訪れる。彼が3枚重ねで着用したマスクを1枚ずつ外していく姿をヨンは目撃するのだが、それはいかにも異様な姿として彼の眼に映る。白血病患者は非常に感染リスクが高まる為、外出時はマスクが必須である事を知らないヨンは、マスク姿のショウイーに不信感を覚える。マスクで隠して顔を見せようともしない人間は信用できない、というのだ。実はこの映画、中国では2018年つまりコロナ禍以前に公開された作品である。日本での一般公開が遅れに遅れ、今年になってしまった訳だが、真っ昼間からマスクを着けている人間を怪しむ、というのは、現在の私たちが既に失ってしまった感覚だ。今では逆に、マスクを着けていない人間の方が白い目で見られるのだから。従って、ラストの演出も、2018年当時の私たちであれば更に感動を覚えたかもしれない(もちろん、感動的なシーンであるのは間違いないが)。マスクという小道具ひとつ取っても、既に私たちは以前と同じ様に受け止める事ができない状況にある。果たして、ポストコロナ以降の映画が描く日常とは、どの様なものなのだろうか。俳優たちの顔の半分が布で覆い隠された様な映画を成立させる手法を、私たちはまだ知らないのである。

 

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ダラス・バイヤーズクラブ(字幕版)

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  • 発売日: 2014/09/02
  • メディア: Prime Video
 

こちらも実際の偽薬販売事件をもとにした一作。マシュー・マコノヒージャレッド・レトが未承認の治療薬販売会社を設立するエイズ患者を演じ、アカデミー主演&助演男優賞に輝いた。