事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

村瀬修功『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』

観てから読むか、読んでから観るか?それが問題だ

この映画、ガンダムシリーズの劇場公開作品としては『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』以来の大ヒットとなっているそうだ。私は小学生の頃、『機動戦士ガンダムZZ』をリアルタイムで観ていて、その流れで『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』が公開された際に友人と観に行った記憶がある。正直、あまりにつまらないので途中で寝そうになった。当時の私は『機動戦士ガンダム』も『機動戦士Zガンダム』もちゃんと観ていなかったので、何が何やらよく分からなかった事、また単純明快なロボットアニメとして製作された『ZZ』と比べて余りにも暗い内容に馴染めなかったのだろう。ただ、何か気色悪いなあ、と感じたのは覚えていて、それはクェス・パラヤシャア・アズナブルの関係性に嫌悪を抱いたからかもしれない。今回、『閃光のハサウェイ』を観るにあたり『逆襲のシャア』も見直してみたがその印象は変わらなかった。
ガンダムシリーズ―と言っても私は宇宙世紀篇の初期作品しか観ていないのでそこに限定しての話だが―では、主人公たちの運命を左右するファム・ファタルが必ずといっていいほど登場する。初代『機動戦士ガンダム』に登場したララァ・スンが最も有名だが、『Z』のフォー・ムラサメにせよ『ZZ』のエルピー・プルにせよ、いずれも同じようなパーソナリティの持ち主―幼児性が顕著で情緒不安定で、時にエキセントリックな言動で人々を振り回しもする―であり、それがニュータイプとしての精神的な脆さ、あるいは女性としての魅力として描かれていく。こうした女たちに主人公を含む男たちが引き寄せられる、というのが初期作品に共通する構図だ。男たちは家族関係において何らかの欠乏感を抱いており、その欠落を女たちによって埋めようとする。前述の『逆襲のシャア』においても、シャアが「ララァに母を求めていた」と告白するシーンがあるのだが、こうした男と女のこのいびつな関係性をモビルスーツによる戦闘描写のバックグラウンドとして用意した事が、ガンダムシリーズをそれまでのロボットアニメと異なる次元に押し上げた要因だろう。その延長線上に『新世紀エヴァンゲリオン』といった作品が存在するのは指摘するまでもない。
その『逆襲のシャア』に登場した(初登場は『Z』だが)ハサウェイ・ノアが本作の主人公となる。彼は『機動戦士ガンダム』でアムロ・レイと共に戦った、戦艦ホワイトベースの艦長ブライト・ノアミライ・ヤシマ少尉の息子にあたるのだが、『逆襲のシャア』ではこれまた非常に気持ち悪い青年として描かれていた。彼は、前述したクェスという少女に好意を持っていたが彼女は地球を裏切り、シャア率いるネオ・ジオン軍のパイロットとなる。クェスを諦めきれないハサウェイは父親が艦長を務める戦艦に無断で乗り込み、挙句はモビルスーツを勝手に拝借して戦場に出るものの、目の前でクェスが殺された事に逆上し味方機を撃墜してしまう。彼の人となりは何となく『Z』に登場するカツ・コバヤシを思わせるのだが、この視野の狭さと異性に対する依存的な態度は、ガンダムシリーズに登場する男たちが持つ病の如きものかもしれない。
男たちが抱える病の症例として、大規模なテロ行為が描かれていく。これは『逆襲のシャア』と『閃光のハサウェイ』に共通するテーマだろう。クェスを失い、仲間を殺害した罪悪感に囚われていたハサウェイは、マフティーという反政府テロ組織の活動に身を投じていたが、たまたま出会ったギギ・アンダルシアという少女―またもや、ファム・ファタルのモチーフが反復される―に出会った事から、運命の歯車が音を立てて回り始める。本作は3部作の1作目という事もあり、まだ導入部とでもいうべき内容なのだろうが、それでも臨場感溢れるダバオ空襲シーンなど見どころは多い。村瀬修功による演出は富野由悠季が築いたアニメーションの演出技法を現代ハリウッドの文法に合わせてアップデートさせた、という印象がある。アクションだけではなく、会話シーンにおいてもそのカットの割り方や小道具の使い方は極めて洗練されており、いかにもアニメっぽいわざとらしさが皆無なのは驚きだ。その意味で、『閃光のハサウェイ』はガンダムファンでなくともお勧めできるエンターテインメントに仕上がっている…と言いたいのだが、実際はそうでもない。本作を楽しむには、やはりある程度の予備知識が必要とされるからである。序盤から展開する混み入ったストーリーは、『機動戦士ガンダム』『Z』『逆襲のシャア』の内容をある程度知らないとどうしても置いてけぼりにされた様に感じるだろう。
更に、本作は富野由悠季の原作小説を再現する事に腐心するあまり、1本の映画としての構成に問題が生じている様に思う。簡単に言ってしまえば、主人公ハサウェイ・ノアがマフティーである事を観客に隠したいのか隠すつもりがないのかがよく分からないのだ。何となく、その事実を伏せたまま話を進めてクライマックスにハサウェイの正体を明かす、という風にしたかった様に思えるのだが、そのわりにはハサウェイの行動が序盤からいかにも怪しすぎるし、謎めいた人物が周囲をウロチョロしているので、どんでん返しとしては機能していない。かといって、ハサウェイ=マフティーという事実を最初からはっきり明かしている訳でもないのだ。原作小説を読んでいる観客と読んでいない観客のどちらを想定しているのか、どうも腰が定まっていない様に感じた。正直、このプロットであればクライマックスまでハサウェイの正体を隠して観客を驚かせる、というかたちを採った方が良かったと思うのだが…本作の完成版を観た富野由悠季が「映画としてもっと構成を考えてはどうか」とプロデューサーに伝えたのもそうした点ではないかと思う。
といった風に語り口のレベルでぎくしゃくしたところ、説明不足な点が散見されるのは惜しいが、それでも圧倒的とも言える作画のレベルの高さは一見のが価値ある。同時期に公開される富野御大の『劇場版 GのレコンギスタⅢ 宇宙からの遺産』と見比べてみるのも面白いかもしれない。

 

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最低でもこれぐらいはチェックしておいた方がいいだろう。改めて観ても本当に異常な作品である。