事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

HIKARI『37セカンズ』

映画の冒頭、トイカメラか何かで写した様な、ミニチュアめいた東京の街並みが俯瞰ショットで映し出される。その不思議に現実感を欠いた風景が、リアリティとファンタジーのない交ぜになった、本作の不思議なトーンを初めから提示しているのだ。だからこそ、映画の終盤に主人公ユマとフリーランスのヘルパー俊哉が、生き別れとなったユマの双子の姉を訪ねてタイへ向かう、という唐突な展開もすんなりと受け入れる事ができる。リアリティ一辺倒の映画であれば、このタイ旅行のエピソードを成立させる為に、費用はどうやって工面したのか、ユマはパスポートを持っていたのか、なぜ俊哉はタイ語が喋れるのか、といった点をくだくだしく説明しなければならなかっただろう。本作はそうした描写をいっさいすっ飛ばして、タイを舞台にしたロードムービー的な筋書へとジャンプする。言わば、リアリティを離れてファンタジーの領域へ踏み込んでいるのだ。
だから、私たちは生き別れになった双子の姉という存在を額面通りに受け取る必要はない。ユマは、生まれてから37秒間呼吸が止まっていた為に脳性麻痺になった(これは、ユマを演じた佳山明の実体験でもある)。ならば、双子の姉とは37秒以内に呼吸する事のできた、存在したかもしれないもう1人のユマでもあるのだ。姉と出会った後、ユマは「もし、姉と生まれる順番が入れ替わっていたら、37秒以内に呼吸する事が出来ていたら、もっと違う自分になれたかもしれない」と述懐する。しかし、その上で彼女は「私が私で良かった」と結論付けるのだ。つまり、映画のタイトルにもなっている37秒間とは、ユマが脳性麻痺になった原因ではなく、彼女を彼女たらしめる掛け替えのない時間だったのである。漫画家としての才能を持ちながら友人のゴーストライターでしかなかったユマは、映画のラストで漫画家として独り立ちするきっかけを掴む。彼女は誰かの幽霊である事を辞め、ありのままの存在として世界と対峙する覚悟を手に入れたのだ。
映画が始まり、幕を閉じるまでの時間についてだって同じ事が言える。その115分間の間に体験した全てが、ユマが新たな可能性に向かって足を踏み出す為に無くてはならないものだった。もちろん、これは彼女に限った話ではない。今、涙を拭いながら映画館を後にしたあなたにとっても、この115分間は明日の自分に出会う為の大切な財産になった筈だ。

 

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こちらはガス・ヴァン・サントによる実話をもとにしたヒューマン・ドラマ。同じく、車椅子に座る漫画家が主人公。本作とは対照的に、ホアキン・フェニックスのプロに徹した演技が素晴らしい。以前に感想も書きました。