事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

マーティン・スコセッシ『アイリッシュマン』

マーティン・スコセッシMCU映画についてのコメントを求められ「あれはテーマパークの様なもので映画ではない」と述べた事が色々と物議をかもした様である。ジェームズ・ガンを始めとしたMCU関係者からの反発がある中、フランシス・フォード・コッポラはあくまでスコセッシを擁護しMCU映画について「ひどいものだ」と、更に手厳しい評価を下していた。しかし、スコセッシとコッポラのMCU映画批判は、少々論点がずれている様にも思う。コッポラが作品の質を問題にしているのに対し、スコセッシは作品の質を不問に付す様な、興行体系そのものについて疑問を呈しているからだ。
既に、MCU映画は個々の作品について出来不出来が問われる段階にはない。観客が気にしているのは、自分の観ている映画がマーベル・シネマティック・ユニバースという、「大きな物語」の中でどの様な位置を占めるのか、という点だけだからだ。もちろん、製作陣は映画単体としての質を向上しようと懸命な努力を続けているのだろうが、それとは全く別の問題なのである。スコセッシがMCU映画をテーマパークに近い、と述べているのは、この意味で正しい。例えば、ディズニーランドにおいて、各アトラクションの出来不出来が問題にされる事はない。それは、ディズニーが提示する「大きな物語」を構成するひとつのピースとして消費されるだけだからだ。
俳優陣の自然な老いを表現する為に、VFXによる映像加工を採用した本作は、製作費が大幅に膨らんだ為にNetflixに資金提供を仰ぐ事となった。その契約上、映画館での上映はごく短期間に限られ、Netflixによるストリーミング配信が主な公開手段となる。その分、映画館の回転率を考慮しなくて済む為、スコセッシは上映時間3時間半の大作を作り上げる事ができた。既存の映画館がテーマ―パークのアトラクションに変貌した現在(4DX上映などはその最たる例である)、こうしたサブスクリプションサービスがスコセッシやコッポラの考える「映画」の受け皿となっていくのだろうか。色々と考えさせられる事態である。
さて、膨大な製作費と3時間半という上映時間をつぎ込み、1975年のジミー・ホッファ失踪事件を軸に、キューバ革命ジョン・F・ケネディ暗殺、ウォーターゲート事件など、これまで何度も映画化されてきた史実を織り込みながら、1950年代から続くアメリカの影の歴史を描く『アイリッシュマン』は、それではMCUに匹敵する様な「大きな物語」を私たちにもたらしてくれたのだろうか。そうではない。スコセッシが描いたのは、時代に翻弄されながらも自らの道を切り開くべく闘い続けた一人の男の末路、というあくまで「小さな物語」なのである。
ロバート・デ・ニーロ演ずるフランク・シーランが、全米トラック運転手組合の委員長ジミー・ホッファとマフィアのボスであるラッセル・バッファリーノに取り入り、一介のトラック運転手からアメリカ社会に影から大きな影響を与える人物にまで成り上がっていく様を、スコセッシは緩急自在に語っていく。膨大な量の情報を詰め込みながら、最後まで圧倒的なスピードで突っ走る『ウルフ・オブ・ウォールストリート』などと比べれば、円熟の極みに達した様なゆったりとした語り口ではあるものの、そこかしこに映画的滋味が含まれており、決して観客を飽きさせる事がない。特に感慨深いのは、ラストシーンを含め、映画の要所に挿入される「半開きのドア」のショットである。たったこれだけの道具立てで、スコセッシはフランク・シーランが生涯で何を得て、何を失ったのかをはっきりと示している。
こうした細部の積み重ねによって、『アイリッシュマン』はアメリカが辿ってきた血と暴力の歴史をフランク・シーラン個人の物語へと収斂させていくのだ。虚構が単一のそれとして強度を保ち得ず、単数から複数へ、ねつ造された関係性によって繋がり「大きな物語」を復活させようとしている現代において、マーティン・スコセッシの複数から単数へと向かう孤独な歩みを、決して見逃すべきではない。

 

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スコセッシの代表作であり、ギャング映画の金字塔。今作と時代的にも重なる部分があります。

 

ロバート・デニーロ主演の裏アメリカ史を描いた映画といえば、やはりこの作品は外せない。後年、アメリカ映画に接近していったセルジオ・レオーネの傑作。