事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ジェームズ・グレイ『アド・アストラ』

 

監督、脚本を務めたジェームズ・グレイによれば、本作はコンラッドの『闇の奥』や、ホメーロスオデュッセイア』といった文学作品にインスパイアされたという。なるほど、地球外生命体の存在を調査する為に海王星へと旅立ち、そのまま音信不通となったクリフォードの造形は植民地時代のコンゴ奥地で行方知れずになった『闇の奥』のクルツを思わせる。逆に、軍の命令を受けて30年前に消息を絶った父親への再接触を試みるクリフォードの息子ロイは、トロイア戦争で戦死した筈の父親を探し求めて長い旅に出る、『オデュッセイア』のテーレマコスになぞらえる事ができるだろう。

クルツ=オデュッセウス=クリフォードが俗世を離れ長い旅に出る事で聖性を獲得した「英雄」であるのに対し、マーロウ(『闇の奥』でクルツの足取りを追う商人)=テーレマコス=ロイは、その旅に帯同する事なく、俗世に留まらざるを得なかった、言わば「端役」に過ぎない。映画に限らず、様々な物語で語られてきたヒロイックな冒険譚を、こうした取り残された者たちの視点で語り直す事が本作の試みであると言える。

しかし、『アド・アストラ』のクリフォードに与えられた「英雄」という称号は、もともと軍の不名誉を隠す為に偽造された物語の産物に過ぎない。実際には、彼はその独善的な態度から乗組員の反乱を招き、太陽系の片隅で孤絶せざるを得なかっただけなのである。従って、彼は聖性に触れる事すらかなわなかった「偽の英雄」なのだ。本作も意識せざるを得なかったであろう、スタンリー・キューブリックの名作『2001年宇宙の旅』では、ボーマン船長が木星探査の末にスターゲイトを通る事で、人類を超越した存在「スターチャイルド」へと進化する。それに対し、『アド・アストラ』に登場する人々は、未だモノリスに触れる以前の、猿のままであると言える。彼らが地球を飛び出したところで、宇宙資源をめぐって新たな紛争を起こすのが関の山だ。映画の中盤、唐突に登場するマントヒヒは、地球を飛び出しても醜い争いをやめようとしない、人間の似姿でもある。

2001年宇宙の旅』の公開から50年が経ち、私たちは宇宙の果てに新たな可能性を見出す事すらもはや許されていない。デイミアン・チャゼル『ファーストマン』のラストにおいて、人類初の月面着陸を成功させ帰還したニール・アームストロングは、やがては訪れるであろう離別の時を予感させるかの様に、妻とガラス板を隔てた無言の対面を果たす事になる。どれだけ地球から離れようとも、私たちが私たちである限り、いつも心を苦しめる他者との関係性や自己に対する疑いといった問題は消えはしないのだ。神から見放された私たちは、その聖なる足跡を追い求めながら「俗世」に留まり続けるしかない。

本作では、何度も繰り返される心理試験や各所に挿入されるモノローグによって、主人公ロイの内面が詳細に説明される。この様に、いちいち言葉で登場人物の心理を説明するのは映画としてはいささか野暮な手ではあるのだが、心理試験では自身がいかに冷静で職務に適した人間であるか、ロイによる自己分析が口述され、モノローグではそうした自分に対し、彼自身が嫌悪を抱いている事が語られる、という風にここではロイの内面が対立する様が多声的に示されていると言うべきだろう。心理試験での自己認識が神への宣誓に、そしてモノローグでの告白が神へ対する懺悔の様に聞こえるのは、決して偶然ではない。

 

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フランシス・フォード・コッポラによる、言わずとしれた名作。こちらも『闇の奥』にインスパイアされたと言われているが、ダンテの『神曲 地獄篇』の影響も窺える。