事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ジャファル・パナヒ『ある女優の不在』

家族からの反対にあい、女優への夢を絶たれた少女が将来を悲観し、洞窟内で首吊り自殺を図るまでの動画を突然送り付けられた人気女優ジャファリと映画監督のパナヒが、少女の行く末を案じ、その顛末を調べる為にイラン北西部のサラン村へと向けて車を走らせていると、その前方に曲がりくねった狭い道が現れる。たまたま通り掛かった老人によれば、山岳上にあるこの道は2台の車がすれ違う広さが無い為に、車が道を通る場合は事前にクラクションを鳴らし、互いに合図を送りあう決まりになっているという。クラクションはその鳴らす回数や長さによって、符牒の様に意味を変えるので、予めルールを理解していないと相手のドライバーに自分の意思を伝える事ができない。初めて村を訪れようとするジャファリとパナヒは、偶然に出会った老人が教えてくれなければ、村に辿り着く事すらできなかっただろう。映画は、このシーンだけで女優と監督が向かおうとしている村がいかに排他的な場所であるかを簡潔に指し示す。
だから、マルズィエという名の女優志望の少女の前に立ち塞がるのも、やはりこの道なのである。この村で車を使うのは、農作物や家畜をトラックで運ぶ男たちだけであり、女として生を受けた者はこのクラクションによる符牒を生涯知る事がない。彼女たちは男たちの許しを得て、他所の村へ嫁ぎに行く時ぐらいしか、この道を通って村を出る事ができないのだ。マルズィエが夢見る、進学や女優への道の為に、男たちが符牒を教える筈もない。
山岳部を走る曲がりくねった狭い道がマルズィエにとって未来への道であるとするなら、村に蟄居するかつての大女優シャールザードにとって、その道は過去へと通ずるのだろう。イラン革命後に一切の演技を禁じられた彼女は、今や村の中で白眼視される存在として日々を送っている。シャールザードが曲がりくねった狭い道を通って首都テヘランに戻り、再び女優に返り咲く事は現在のイランでは不可能なのだ。
過去、そして未来への道を絶たれた女たちの狭間で、女優として現在を生きるジャファリだけがその道を行き来する事ができる。しかし、それは永遠に保証された権利なのだろうか。結局はそれも、男たちの許しによって与えられた、期限付きの特権ではないのだろうか。
ジャファル・パナヒは師キアロスタミから受け継いだ長回し撮影によってイランの現在をゆっくりと写し取りながら、そこに過去と未来という時制を重ね合わせ多層的な空間を生み出している。そこから浮かび上がってくるのは、表現する事を禁じられた女たちが、一方的に押し付けられた運命に抗おうとする、懸命の身振りである。本作に登場する3人の女優のうち、ジャファリとマルズィエが実名で登場するのに対し、国に演技を禁じられたシャールザードには代役が立てられ、映画の中でもその姿がはっきりと映し出される事はない。その事実は、女優としての彼女の不在を示しているのだろうか。しかし、彼女が自ら書いた詩を劇中で朗読する時、私たちは彼女の実在をはっきりと感じとった筈なのである。

 

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イラン政府から映画製作を禁じられたパナヒが、タクシー運転手に扮し乗客とのやり取りをそのまま撮影した「非」映画…という建前で作られたれっきとした劇映画。皮肉な事にパナヒの卓越したストーリーテリングの妙が冴え渡る結果となった。師キアロスタミの『10話』へのオマージュでもある。