事件前夜

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黒沢清『旅のおわり世界のはじまり』

 

旅のおわり世界のはじまり [Blu-ray]

旅のおわり世界のはじまり [Blu-ray]

  • 発売日: 2020/03/11
  • メディア: Blu-ray
 

TV番組のレポーターとしてウズベキスタンを訪れた主人公が、首都タシケントにあるホテルの部屋の窓を開けた瞬間、不意に強い風が吹き込み、窓に掛かっていたレースカーテンが踊るようにたなびく。黒沢清の映画ではおなじみの半透明の幕がまたもや登場した事を観客は知り、これまでの映画では半透明の幕が日常と異世界を繋ぐ扉として機能していた事を思い出し、それでは窓の外に広がるウズベキスタンの風景こそがその異世界なのだと納得するだろう。

実際、ウズベキスタンでオールロケを敢行した本作では、ウズベク語で話すエキストラが多数登場するものの、彼らの台詞に字幕が付く事は無い。観客は日本からやってきたTVクルーと同じく、通訳の力を借りる事でしか彼らの言葉を理解できないのである。英語を解する者すらほとんどいない国で、前田敦子演じるレポーターは異世界に迷い込んだアリスの様に戸惑いの表情を見せる。何を話しかけられても「I Can't Understand…」と片言の英語で返すしかない彼女は、まるで話しかける様に日本にいる恋人とLINEのやり取りをするのに対し、ウズベキスタンの人々とも一緒にやってきたTVスタッフ達ともろくに会話を交わそうとしない。その意味で、主人公にとっての異世界とは何もウズベキスタンに限った話ではなく、他者そのものだと言える。

一人きりで異国の街を彷徨い、柵を乗り越えて舗装していない裏道をわざわざ選び、地元の警察に追いかけられて薄暗い地下道にまで逃げ込む彼女は、旅のはじまりから「迷子」になる事を希求していた。それは自身を縛る軛から解き放たれ、自由へと歩きだそうとする意志の表れだろう。しかし、どれだけ歩いたところで閉ざされた心のままでは外部に辿り着く事はできない。黒沢清の真骨頂とも言えるホラー演出が効いた逃走劇の末、とうとう捕えられた主人公に警察署長が語る言葉は、彼女と外部を隔てていた扉を開き、未知の世界へと誘う鍵として作用するが故に感動的なのだ。前田敦子ウズベキスタンの山岳で「愛の賛歌」を歌うラストシーンで、彼女がやっと真の「迷子」になれた事を私たちは知る。

 

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セブンスコード

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  • 発売日: 2016/07/01
  • メディア: Prime Video
 

黒沢清×前田敦子のコラボレーションはこの長編PVから始まった。こちらも異国の地を彷徨う少女を主人公としているが、最後にあっと驚く超展開が待っているのだった…