事件前夜

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リューベン・オストルンド『ザ・スクエア 思いやりの聖域』

 

ザ・スクエア 思いやりの聖域 [DVD]

ザ・スクエア 思いやりの聖域 [DVD]

  • 発売日: 2018/11/02
  • メディア: DVD
 

何とも意地の悪い作品である。冒頭のインタビューシーンから一貫して現代美術を茶化し続けているのだが、この批判精神は美術を通り越して、現代社会に生きる人々の欺瞞をあぶり出す。その欺瞞とは、簡単に言えば「見て見ぬ振りをする」という事だろう。
例えば、現代美術家と評論家の公開討論会で、頭のおかしい男が卑猥な言葉を大声で叫ぶ。しかし、人々はそのキチガイを会場からつまみ出す事はできない。精神を病んだ男を責める事は倫理に反する為、自らを進歩的な人間と自負する彼らは、ただ聞こえない振りをして討論を続けるしかないのだ。
美術をめぐる空疎な言説に対し、過酷で不可解な現実がノイズとなる。ならば、その逆もあり得るだろう。主人公と一夜を共にした女性が美術館内で痴話喧嘩を始める。しかし、彼らの会話を遮る様に、そこに置かれた美術品が騒音を立てる。うるさくて会話もできないが、美術に理解のある彼らは、やはりその騒音が聞こえないかの様に振る舞うしかない。
現実に対するレスポンスとして美術が作られ、それを人々が消費する事でまた現実が変容する。しかし、現実と美術作品の間には常に亀裂が存在し、その亀裂は互いを異物として際立たせる。美術をめぐる人々はその様な亀裂などどこにも無いように、「見て見ぬ振り」を決め込むが、中盤の猿人間のシーンではこの亀裂が露出し、その醜い真実をぶちまける。こうした困難を象徴する存在として、道端に座り込む物乞い達が何度も写される。彼らこそ、人々がやましさと共に見ない振りをする、社会の亀裂としてあるからだ。

思えば、前作『フレンチアルプスで起きたこと』でも、リューベン・オストルンドは人々が見ようとしない残酷な現実の姿をあからさまに暴き立てていた。雪崩という不慮のアクシデントが原因でスキー旅行に訪れた家族に亀裂が入ったのではない。割れ目(クレバス)は最初から存在し、雪崩によってそれが露出しただけなのである。