事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

リドリー・スコット『ハウス・オブ・グッチ』

グッチ家を破滅へと追い込んだのは、パトリツィアではない

アレッサンドロ・ミケーレがデザインチームを率いる様になってからのグッチはラグジュアリーストリート路線へと舵を切り、ノースフェイスの様なアウトドアブランドとのコラボレーションまで行う様になった。ライバルであるルイ・ヴィトンがヴァージル・アブローにディレクションを任せた事を考えれば、こうした流れは当然とも言えるが、もちろん旧来のグッチ(というより、トム・フォードが在任していた当時のグッチ)ファンからすれば戸惑いしか感じない方針転換だろう。しかし、旧態依然としたブランドイメージを守り続けているだけでは、時代の流れに取り残され、いつかブランドそのものが死に絶えてしまう。パトリツィア・レッジアーニがマウリツィオ・グッチの妻となった頃のグッチは、まさにその危機に陥っていた。
より深刻だったのは、こうした状況にグッチ家の人々が全く気付いていなかった事である。当時、グッチの実権を握っていたのはアルド、ロドルフォ兄弟だったが、本作でも描かれていたとおり、ロドルフォは父から受け継いだブランドイメージを維持する事に執着し、アルドの様な拡大路線には反対し続けていた。ロドルフォと比べて経営者としての才覚に恵まれていたアルドにしても、過去の遺産を切り売りしているだけでそのブランドに新しい風を吹き込み活性化させる様なクリエイティビティには欠けていたと言わざるを得ない。市場にグッチのイミテーションが出回っている事を問題視したパトリツィアが、アルドにブランドイメージを管理する事の重要さを訴え、一笑に付される場面があったが、当時のグッチはあの様なライセンス販売を無造作に繰り返し、ファッション感度の高い人々からは揶揄の対象となるまでにその地位を落としていたのである(ちなみに、ハイブランドのロゴが刺繍された靴下やハンカチを冠婚葬祭の返礼品か何か貰った事のある人は多いと思うが、ああいうのはライセンス品です。恥ずかしいので身に着けるのはやめときましょう)。という訳で、1980年代のグッチはいずれブランドごとポシャるか、どこかに買収されるのも時間の問題という状態だった。パトリツィアの登場はグッチ家にとってまさに災難だったろうが、皮肉な事にそれがブランドを生き返らせる契機ともなったのである。
パトリツィアとマウリツィオが引き起こしたグッチ家の内紛はこれまで何度も映画化の企画が上がっていたらしいが、いずれも実現しなかったという。何しろ、世界有数のハイブランドの醜聞を描く訳である。事件が起きてからそれほど時間が経っておらず、パトリツィアを含め当事者がまだ存命中である事を考えれば、なかなか踏み込んだ内容に仕上げるのも難しかっただろう。今回、リドリー・スコットがメガホンを取り遂に映画化と相成った訳だが…何というか色々と気を使い過ぎて、結果的に関係者全員を怒らせる様な映画になってしまった。
本作で最も両義的な扱いとなったのが、レディ・ガガ演じるパトリツィア・レッジアーニだろう。グッチ家の人々、特に撃ち殺されたマルリツィオからすれば、この女はとんでもない悪女という事になる。金目当てで名門一家の御曹司に近づき、世界的なブランドを意のままに操り、やがて事が上手く運ばなくなると殺し屋に夫の暗殺を依頼する…この視点から映画を作れば悪女もの、毒婦ものと呼ばれる作品に仕上がっていた筈だ。しかし、パトリツィアにも彼女なりの言い分があるだろう。確かに、マウリツィオが起こしたクーデターはパトリツィアの入れ知恵だったかもしれないが、それも夫の為、グッチというブランドの為を思っての事であり、暗殺についても心変わりした夫の豹変ぶりにショックを受け、思い余って実行したのだ、と…これはどちらが正しいとか間違っているとかの話ではない。立場が異なれば事件の見え方も変わる。まさに、リドリー・スコットの前作『最後の決闘裁判』を思わせる問題なのだ。ただ、『ハウス・オブ・グッチ』は同じ事件を視点を変えて繰り返し描く訳ではない。どちらかと言えばパトリツィア・レッジアーニの立場に寄り添いつつ、事件を「愛の物語(=メロドラマ)」として再構成している。それはそれで構わない。ただ、そのおかげでパトリツィアとマウリツィオ以外の登場人物が極めてステロタイプな脇役として扱われ、非常に薄っぺらい存在になってしまったのではないか?確かに、アルドやロドルフォ、パオロといったグッチ家の人々が経営者として問題を抱えていた事は上述したとおりである。だが、いくら何でも本作に登場する様な、愚鈍を絵に描いた様な人物ではなかった筈だ。例えば、アルドはブランドのアイコンともなったGGのモノグラムを生み、香水や時計といった事業に乗り出す事で顧客層を広げたのだが、その点については全く描かれない(最も、香水事業は当初大失敗に終わったのだが)。アル・パチーノ演じる彼は、ほとんど『ゴッドファーザー』に登場するギャングである。これは長いキャリアを持つ映画監督にしてはあまりにも安直なイメージにもたれかかっていると言わざるを得ない。最も許しがたいのがジャレッド・レトが演じたアルドの二男、パオロ・グッチだろう。彼は決して、本作で描かれた様な才能の欠片も無いデザイナー志望のボンクラではない。グッチ初のプレタポルテ(既製服)をデザインしたパオロは、グッチ家の中では異端であったかも知れないが、極めて才能のあるデザイナーだった(パオロがグッチ家を放遂される原因となった低価格戦略は、その後のファストファッションブームを先取りしていた様にも思う。もちろん、そうした趨勢に乗らなかったからこそ、現在のグッチがあるのだが)。
本作を「愛の物語」として描く事、つまりパトリツィア・レッジアーニをステロタイプな「悪女」とは異なる、複雑な人格を持った存在―「猛女」とでも表現すればいいか、そういえば劇中のレディ・ガガは何となく落合夫人に似ている―として描く事はフェミニズム的な観点からの要請でもあっただろう。今さら「名家の遺産を狙って男に近づく毒婦」みたいな話を再生産しても仕方がない、という判断もあったに違いにない。にもかかわらず、映画序盤ではパトリツィアの「悪女」ぶりが著しく強調されている。パトリツィアはパーティで知り合ったマウリツィオがグッチ家の御曹司である事を知り、尾行まがいの真似までして近づいていく。二人の再会いは決して偶然ではなく狡猾な策略によって準備されたものなのだ。この様な描写がノイズとなり、『ハウス・オブ・グッチ』を純粋に「愛の物語」として受容しようとする観客を阻害する。だからといって、本作を複雑な人間関係が渦巻く愛憎劇として捉えるなら、脇役陣の描き方が紋切型に過ぎて物足りないのは先述したとおりだ。本作は『悪の法則』や『プロメテウス』の様に、超越的な力に翻弄される人々の運命を描いているものの、どうにも中途半端な作品に終わってしまった。これは、リドリー・スコットがグッチ家を破滅に導いた「超越的な力」をパトリツィアだけに求めようとした点に原因があるのではないか。グッチ家の人々を飲み込んだのは、資本主義社会において膨れ上がった消費欲求そのものなのだ。他国の投資会社に買収され、創始者の一族が誰一人かかわっていなくとも、グッチはグッチとして人々に認識され、100年以上にわたる歴史と共に消費されていく。全てが喰いつくされてしまわない様に、ブランドは常に新陳代謝を繰り返し新しい価値(=商品)を提示し続けなければならない。いかに巨額の資本を有するファッション・コングロマリットであっても、大衆の飽くなき欲望の前では無力な存在に過ぎないのだ。