事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

シアン・ヘダー『Coda コーダ あいのうた』

「聴こえない」を「聴こえる」へ変えていくこと

サンダンス映画祭で4冠に輝き、アカデミー賞でも3部門にノミネートされた本作は、2014年のフランス映画『エール!』のハリウッド版リメイクである。オリジナル版ではフランスの田舎町に住む酪農家だった一家が、ハリウッド版ではマサチューセッツ州で漁業を営む家族へと変更された。ここには監督を務めたシアン・ヘダーの幼少時の記憶が反映されているらしいが、とはいえ「聾唖の一家に生まれた少女が自身の歌の才能に気づき、周囲の無理解に悩みながらも歌手を目指す」という、メインプロットそのものに大きな影響を及ぼすものではない。むしろ、本作はキャラクター設定などに細かな違いはあれど、基本的にはオリジナル版にほぼ忠実なリメイクとなっている様だ。ただ、『エール!』から7年の時が経ち、こうした障害を持つ人々を物語に登場させる場合に、いっそうの配慮が必要になった事は言うまでもない。聾唖者の役を実際に聴覚に障害のある俳優演じさせる、という本作のキャスティングもそのひとつだが、手話の描き方についても『エール!』から更なるアップデートが図られている。
『エール!』では主人公のポーラが家族と会話をする際、手話と口話を兼用していた。もちろん、健常者と聾唖者のコミュニケーションにおいて、個人の特性に応じて手話と口語(あるいは筆談)を相互補完的に使用する、という手法が現在のスタンダードになっているのは周知の通りだ。しかし、『エール!』においては手話をめぐる状況をリアリスティックに描いたというより、手話が読み取れない観客の為に「手話から口話への翻訳」を台本の中に組み込んだ様に見え、映画の台詞として不自然に映ったのは否めない。例えば、「『私が自分勝手で冷たい』ですって?そんな事ないわよ!」といった風に、ポーラは自分に投げ掛けられた手話の内容(『』で括った部分)を律義に翻訳してくれるのだが、聾唖者の家族と長年暮らす少女がそんな話し方をする必要など全く無い訳で、これが何度も繰り返されるとさすがにわざとらしい。手話というものを映画の会話シーンにどの様に落とし込むか、という点で『エール!』は些か苦戦していた様に思う。
では、『コーダ あいのうた』はどうか。本作では『エール!』と異なり、主人公ルビーと家族の会話場面は手話だけで成り立っており、その内容は字幕によって説明される。これは当たり前といえば当たり前の方法だが、シアン・ヘダーはおそらく手話によるコミュニケーションを活劇として捉えようとしたのではないか、と思う。自らも聴覚障害を持つ俳優兼ダンサーのアレクサンドリア・ウェイルズをASL(アメリカで普及している手話のひとつ)マスターとして迎えた事からもそれは分かる。ヘダーとウェイルズは必要な台詞を手話に翻訳した上で、その手話を動画として俳優たちに提示していく。それは手話をダンスの振り付けの様に覚えさせる、という事でもあるだろう。本作において、手話は決して口話の代替物ではなく、映画を活性化させるアクションの一部なのである。
『エール!』にせよ『コーダ あいのうた』にせよ、物語の肝となるのは「主人公の歌の上手さ、歌手としての豊かな素質を聾唖者の家族がどうやって認識し、受け入れるか」という点にあった。その過程を描く為に、映画では「主人公が家族に歌を聴かせる場面」が3つ用意されている。これらのシーンでは、少女の歌声が聴覚障害を乗り越えて家族の胸に届いていく様が3通りに描かれるのだが、ここは『エール!』でも落涙必至の名場面であった。さすがに、ハリウッド版でもこの要所は変えられないと思ったのか、ほぼそのままのかたちで踏襲されている。「聴こえない歌」を「聴こえる歌」へと翻訳する、視覚芸術としての映画の真骨頂がここにあるといっていい。

 

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エール!(字幕版)

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オリジナル版よりリメイク版の方がグッとくるのは、私たちがシャンソンやフレンチポップよりアメリカのカントリーソングに郷愁を誘われるからじゃないかと。