事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

白石和彌『死刑にいたる病』

自由に生きようとする意志を嘲笑う悪意

祖母の死をきっかけに帰郷した大学生、筧井雅也はある日、死刑判決を受けた連続殺人犯、樫村大和からの手紙を受け取る。大和は雅也が中学生の頃に行きつけだったパン屋の主人だった。郷愁に誘われ面会に訪れた雅也に大和は驚くべき告白をする。彼が罪に問われた24件の殺人の内、1件だけは全く別の人物の犯した冤罪だというのだ。その冤罪を晴らして欲しいと頼まれた雅也は、弁護士の身分を偽り独自に事件の再調査を始めるのだが―
ハイペースで作品を発表し続ける白石和彌の新作は、阿部サダヲシリアル・キラー役に据えたサイコ・サスペンスである。この手のジャンルの白眉とも言える『羊たちの沈黙』は、FBI訓練生が殺人事件の真相を暴く為に獄中のシリアル・キラーに協力を仰ぐ、という奇抜な設定が特徴だった。本作はシリアル・キラー自身が犯罪捜査の依頼者である、という風に『羊たちの沈黙』の設定を裏返している点に妙味がある。
映画の序盤から樫村大和の鬼畜ぶりがいかにも白石和彌らしい、どぎつめの演出で描かれるので、彼に冤罪が課せられていようと観客は同情も共感もできない。そもそも、24件の殺人が23件になったところで、死刑の判決が覆る事はないだろう。だから、観客の興味は自然と、この殺人鬼の依頼に応じて事件の調査を進める探偵役、筧井雅也の人となりに向けられていく。確かに、大和の主張が真実であれば本当の殺人犯が未だ野放しになっている訳で、新たな犠牲者が生まれる可能性もある。しかし、岡田建史演じる青年はその事に義憤を感じる様なタイプではなく、むしろ全てに無気力な鬱々とした大学生として描かれているのだ。雅也と両親とのぎくしゃくとした関係や、とても満喫しているとは思えないキャンパスライフの描写など、映画は青年の抱える心の闇を少しずつ掘り下げていく。樫村大和と彼の犯した猟奇殺人の調査に雅也がのめり込むのも、無意識下で殺人鬼にシンパシーを感じているからではないか。
事件の捜査が進み、新たな事実が明るみになるにつれ、樫村大和と筧井雅也の関係は依頼人と探偵という立場を超え、より親しいものへと変わっていく。その関係性の推移を表現しているのが、面会室のアクリル板をめぐる描写だろう。両者の心理的距離が縮まるにつれ、互いの空間を隔てていた障壁は無効化し、いとも簡単に乗り越えられてしまう。映画の序盤から、アクリル板に反射する2人の顔が重なるショットによって彼らの同質化は予告されていたのだが、『羊たちの沈黙』において、ハンニバル・レクタークラリススターリングの間に疑似的な父娘関係を築かれていた事を思えば、本作の終盤で仄めかされる事実もまた、当然予想されるべきものだろう。
しかし、極めて屈折したプロットを持つ本作においては、犯人と探偵役の同化というミステリーではお馴染みのモチーフすらトリックに組み込み、二転三転のどんでん返しで観客を煙に巻く。黒沢清の『CURE』、あるいは『クリーピー 偽りの殺人』を想起させる終盤の展開は、他人ではなく自らの意志によって生きようとする主人公の人間的成長すら、どす黒い悪意で包み込む。お前たちは絡め取られた網から決して逃れられないのだと悪魔は嘲笑する。その余りにも救いのないラストから、本作も近年流行の「イヤミス」に分類できるだろう。しかし、いかんせんサイコ・サスペンスというジャンルでは何度も使われているモチーフなので新鮮味に乏しいのは否めない。もちろん、これは櫛木理宇の原作に起因するのだろうが、どんでん返しの果てに辿り着いた結末が最もありがちなものに感じてしまうのは残念だ。
露悪的なゴア描写ばかりに眼がいきがちだが、点景描写というか、背景への人物の配置の仕方が非常に巧みで、和製サイコ・サスペンスとしてわざとらしさが全く無いのはさすがだ。おそらくロケハンが上手いのだろう。

 

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実話をもとにした白石和彌監督による犯罪映画の代表作。この作品でも死刑判決を受けた凶悪殺人犯が記者を呼び出し、新たな告白を行うところから物語が始まる。