事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

豊島圭介『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』

三島由紀夫が1969年に東大全共闘と行った討論会については、『美と共同体と東大闘争』という本が角川文庫から出版されていて、映画ではカットされているやり取りについても全て収録されている。この討論会がその1年後に三島が実行するクーデターと自決にいかなる影響を与えたのか、日本の運動史においてどの様な意味があったのか、そうした論点については私には手に余るので何も書けない。かといって「立場は違えど己の理想とする道を突き進む両者の熱情ほとばしる言葉の応酬に打たれた」とか何とか、ぼんやりした感想を述べても仕方がない。という事で、正直何も書く事が無いのだが、ただ映画の中でもスポットが当てられている、三島と芥正彦の論争については、個人的に非常に興味深かったので感想めいたものを書いておきたい。
まず、机がある。この机は、普通であれば書き物をしたり、本を読んだりといった目的の為に作られたものだ。しかし、全共闘の学生たちはこの机を、自分たちの解放区(公的権力の支配から逃れた自治空間)を囲い込む為のバリケードとして使用する。この時点で、机は本来の目的から切り離された訳だ。だが、この机は材木の伐採から加工といった生産工程を経て、人々の元に届いたものの筈である。机を机として使わず、バリケードとして使えるのは、全共闘の学生たちが生産過程から切り離されているからではないか、と三島は指摘するのだが、これは「食べ物をおもちゃにするな」というのと同様の主旨であろう。例えば、TVのバラエティ番組でパイを投げつけあって顔を生クリームだらけにする芸人が昔はよく登場したものだが、今ではめっきり見掛けなくなった。代わりに、偽物のパイを投げあって、ご丁寧に「これは本物ではありません」といったテロップが表示される。これは、TV番組の製作スタッフが、食べ物を本来の用途から外れて使用する事への疚しさに耐えられなくなったからだろう。あるいは、その疚しさに耐えられない視聴者からのクレームに応じたのかもしれない。いずれにせよ、それは私たちがパイや机といった商品の生産過程から抜け出せないからこそ生じる感情である。全共闘の学生たちが机をバリケードとして使用して疚しさを覚えないのは、彼らが生産過程から切り離されている、つまり労働からサボタージュしているからこそ可能になったに過ぎないのではないか、という批判である。
これに対し、芥は生産過程など知った事か、と反論する。どの様な工程を経ようと、机は机そのものとして眼の前にある。いや、それを机と呼ぶ事自体、机をめぐる様々な社会的関係性に縛られる事を意味するのだから、ただ事物がそこにあると考えればよい。それをバリケードとして使用する事は、全共闘の学生たちが事物そのものと対峙しているからこそ可能となったのである。バリケードに囲まれた解放区とは、あらゆる関係性や時間の概念すら消失した、事物が事物と対峙する場として存在し、それこそが革命的空間と言えるのではないのか、と。
それでは、と三島が応じる。諸君らがバリケードを使って勝ち得た解放区が、警察の機動隊に攻め込まれ、3分間しか保ち得なかったとする。3分しかもたなかった解放区と、3日間保持できた解放区に、戦略的な意味において差は無いのか。あくまで解放区とは時間という概念を捨象した空間なのか。そんなものに果たして社会的な意義が見い出せるのか。これは、運動の本質性を問う鋭い指摘である。
だが、芥は揺らがない。3分間と3日間、そんなものを比べる事に意味はない、と彼は主張する。要するに、芥にとっては解放区が、ひいては左翼活動そのものが刹那の遊戯でしかないのだ。重要なのは、現れては消える刹那を何度も潜り抜けていく事に生の価値を見出す事である。刹那が何度繰り返されても、それが時間の集積として形成される事はない。刹那はどこまでいっても刹那である。歴史を過去に起きた事実の積み重ねとして捉える三島に対し、芥が歴史とは可能性の広がりであると応じるのも当然だろう。芥にとっての歴史とは、「昔」の集積ではなくあらゆる事象が起きる予兆を秘めた「今」の連続なのである。更に(ここは映画ではカットされているが)、芥は遊戯とゲームは全く異なるものだとして峻別する。ゲームと違って、遊戯には勝敗という概念が必要ない。ゆえに、運動(遊戯)の成功とは支配権力に対する勝ち負けによって左右されるものではないのだ。この主張は、他の左翼学生にはほとんど理解できないものであったろう。その証拠に、討論の最中に他の学生が「観念的なお遊びだ」と芥を批判する場面がある。
と、何でこんな分かったような分からない様な事をグダグダ書いてきたかというと、この2人の時間と空間に対する認識の相違が、それぞれの創作活動に対するスタンスの違いを示していると思ったからだ。三島は、自分が『万葉集』や『古事記』以降、連綿と続いてきた我が国の文学史の最後尾に連なる者という自覚がまずあり、その位置からいかにこれまでの文学を更新できるか、という試みを続けてきた。それに対し、芥にとっての演劇とは、舞台の上で役者が話し、動き、踊る、その刹那の連続であり、数多の古典から成る演劇史など全く信じていない。もちろん、古典についての知識もそれなりにあったのだろうが、それを時系列に沿った流れの中で把握するのではなく、たまたま生まれ落ちたひとつの作品として対峙すべきだと考えてきたのだろう。
これは、どちらがより優れているか、正しいか、という問題ではない。ただ、三島の市ヶ谷蜂起と自決について齢70歳を過ぎた現在の芥が「あれで良かった」と感想を漏らすのは、シニシズムでも何でもなく本音なのだろう、と思う。おそらく、市谷駐屯地で三島が起こしたクーデターを芥はひとつの文学として捉えたのだ。それは、これまでのどんな文学とも似ておらず、また後に続く者も存在しない。過去からも未来からも切り離され、いかなる関係性からも解き放たれた、私生児の様なものとしての文学。もちろん、三島にその様なつもりがあったとは思えない。彼は『豊饒の海』四部作によって文学に見切りを付け、その後の市ヶ谷蜂起は文学とは切り離した実践的行動だと考えていた筈だ。しかし、結果的にそれが文学とどうしようもなく似てしまう。ここに三島の文学者としての才能、運動家としての不幸があったのではないかと思う。

 

あわせて観るならこの作品

 

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  • 発売日: 2006/04/28
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三島由紀夫が自身の小説をもとに、監督、脚本、主演を務めて制作した短編映画。エロスとタナトスという、三島が拘泥し続けたテーマが30分弱という短い時間の中に詰まっている。ブニュエル的な不条理映画として観る事も可能。おそらく、海外の観客はその様に捉えたのだろうが…

 

市ヶ谷蜂起事件当日の模様を描きつつ、幼年時代の生い立ちや『金閣寺』に代表される文学作品の挿話を盛り込んで、三島由紀夫という人間を重層的に捉えようとしたポール・シュレイダー監督作品。遺族の反対によって日本での公開は見送られたが、日本の俳優が多数出演(三島由紀夫役は緒形拳)しているので、輸入DVDでも問題なく鑑賞できる。東大全共闘との討論についても少しだけ描かれています。