事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

今泉力哉『his』

柔らかな朝の日差しに照らされたベッドの上で、日比野渚(藤原季節)は、微睡む井川迅(宮沢氷魚)の耳を愛撫し、その耳の形から恋人の性格を診断する。渚によれば、三日月形の耳を持つ者は控えめで協調性があり、他人に尽くす事に喜びを見出す受動的な性格であるらしい。この冒頭場面で渚は迅に突然の別れ話を切り出すのだが、それから数年後、周囲にゲイである事を知られるのを恐れ、岐阜県の山里でひっそりと暮らしていた迅のもとへ、既に結婚し子供をもうけていた渚が、一人娘を連れて現れる。突然の再開に戸惑うかつての恋人に、彼はしばらく居候させて欲しい、と頼む事になる。迅は気持ちの整理がつかないまま、かつて目の前の相手が耳占いで診断した性格どおり、渚とその娘、空(外村紗玖良 )を受け入れ、ぎこちない共同生活を始める事になるだろう。
ゲイのカップルが幼い子供と疑似家族を形成していく様を描いた『his』において、前述の冒頭場面は象徴的な意味を持つ。ここでは、主人公である迅の性格が耳占いという形を借りて予め提示され、そのとおりに振る舞う彼の姿を、私たちは目撃していく事になるからだ。細かなエピソードの積み重ねや、俳優の演技によって表現すべき登場人物の性格設定を、台詞によって説明するというのは、アクションの連続で成り立つべき映画において、いささか野暮な手法と言わざるを得ない。そして、冒頭場面に限らず、『his』は登場人物の心情をそのまま台詞として表現する場面が頻出し、どちらかと言えば動きの少ない静謐なショットで構成された映画的空間の中で、言葉の優位性が強調され続ける事になる。とはいえ、今泉力哉の作品の中でも、例えば『愛がなんだ』で発せられた言葉たちが、結局は言葉で説明できないものを浮かび上がらせた様な不可解な奥行きは『his』には見られない。むしろ、話者の心情を正確に引き写した様な、平板な台詞回しが繰り返されていく。
しかし、恋愛映画にとって本来は重大な欠点となるであろう、この言葉の優位性こそ本作にとって必要不可欠な要素なのだ。劇中で迅の読み進める小説がカフカの『審判』である事からも分かる通り、本作はラブストーリーやホームドラマではなく、むしろ法廷劇として撮られているからである。映画の後半では、渚と妻の玲奈(松本若菜)が親権を争う離婚調停裁判のシーンが続く事になるのだが、いかなる裁判であるにせよ、そこが言葉と論理の支配する空間である事は言をまたない。
従って、本作に登場する人々に求められているのは、自らの想いや感情を他人に伝える為の言葉である。『his』という空間では、胸に秘めた想いや心の内の葛藤は言葉として表されない限り無力なものに過ぎない。例えば、役場の職員である吉村美里(松本穂香)は、迅がゲイである事を知らず、ほのかな恋心を寄せている。彼女が迅に好意を持っている事など、その表情や話しぶりを見れば観客には一目瞭然のはずだ。演者の松本穂香はそれと分かる様な演技をしているからである。しかし、当の迅にはその想いが全く伝わらない。美里は結局、言葉によって自らの好意を告白する事になる。黙っていても他人に気持ちが伝わる事など、ここでは期待するだけ無駄なのだ。言葉が優位性を有する世界では、沈黙は無力であるだけでなく、時には他者を傷つける凶器にすらなりうる。迅は美里の告白に当然応える事ができないのだが、この不幸なすれ違いが生じたのも、そもそも彼がゲイである事を隠したまま生きてきたからである。やがて、迅はこうした悲劇が繰り返されない様に、村人が集まった通夜の席で、自身がゲイである事をカミングアウトするだろう。ここでも、必要とされるのは沈黙ではなく言葉なのだ。
当然の話だが、親権を争う離婚調停裁判で必要とされるのは、父親と母親のどちらに子供を養育する条件が整っているか、という身も蓋も無い事実と、それを証明する論理なのであり、例えば子供に対する愛情の深さなど考慮するに値しない。渚と迅がどれほど愛し合っていたとしても、法廷では不倫中の愛人関係としか判断されないし、玲奈が仕事と慣れない育児を両立する為に必死に頑張っていようと、その成果が不十分であれば裁判には不利に働くのである。後半の裁判パートでは、ラブストーリーの登場人物がいきなり法廷劇に引っ張りだされたかの様な様相を呈し、証言台に立つ人々は弁護士からの厳しい追及を受け、言葉の優位性を再認識させられる事になるだろう。このあまりに残酷な闘争に終止符を打つ為、渚は玲奈に抱いていた想いを、謝罪の言葉として口にする必要に迫られる。
言葉と意味の過剰な奔流を潜り抜けて、やがて彼らは彼岸の様な場所に辿り着く。公園で不器用に自転車を漕ぐ空と、それを見守る迅、渚、玲奈の姿を俯瞰で捉えたラストシーン。言葉で説明しなくとも、このショットだけでこれから新しい絆が生まれ、そして育まれていく事を観客は予感するだろう。この場面が感動的なのは、彼らが言葉の優位性を自覚しそれを受け入れた上で、それぞれの居場所を発見したからである。ただ黙っていても受け入れてくれる場所など、どこにも存在しないのだ。『his』が示すのは、その厳格な事実なのである。

 

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ゲイのカップルが育児放棄された障害者の少年の里親になろうとする物語。この作品でも、主人公たちの戦いはあくまで法的な手続きに則って申請され、審理され、判決が下される。親と子の愛情、という法律では割り切れない問題を、しかし私たちはあくまで法律によってしか解決できないのだ。この映画では、ゲイカップルの職業をそれぞれ弁護士と歌手に設定し、裁判所でのロジカルな言葉の応酬と、ステー上で解き放たれるエモーショナルな歌の対比によって現実の複雑さを描いている。