事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ケン・ローチ『家族を想う時』

「いやあ、ケン・ローチの映画って初めて観たけど、なかなか考えさせられるテーマで面白かったなあ。ついでに他の作品も観てみるか。よし、AmazonでDVDをポチーッと!」
待て待て待てーい!お前はこの映画の何を観てたんだ!そのアマポチしたDVDを誰が運んでくると思ってんだよ!
と、まあそういう訳で、引退宣言を再撤回したケン・ローチの新作は、過剰な物流サービス競争に起因するドライバーの労働問題、フランチャイズという名を借りた大企業による個人事業主への搾取、という我が国でも深刻な問題になっているワーキンング・プアをテーマに扱っている。前作の『私はダニエル・ブレイク』が、心臓病によって仕事を失ったにもかかわらず、厳格な審査によって公的な支援も受けられない、言わば福祉の隙間に落ち込んでしまった老人の姿を通し、イギリスの福祉政策が弱者を振るい落とす非人間的なシステムとしてしか機能していない事実を告発していたのに対し、本作ではたとえ仕事にありつけたとしても、グローバル企業が作り上げた搾取構造に取り込まれ、労働者は働けば働くほど困窮するしかない、という現状を指弾する内容となっており、監督自身が述べている通り、イギリスの労働環境を批判的に描いた作品としてこの両作は対になっていると言えるだろう。
不勉強ながら、私は『ケス』と『私はダニエル・ブレイク』ぐらいしかケン・ローチ作品を観ていない。後は、スティーブン・ソダーバーグの『イギリスから来た男』の中で、デビュー作『夜空に星のあるように』が引用されているのを観たぐらいである。そのデビュー作から一貫して、社会的弱者に寄り添う作品を作り続けてきたケン・ローチは、肥大し続ける資本主義経済に対して極めて批判的であり、現在の苦境から労働者を救うには、緩やかな計画経済への移行しかないと主張している。
従って、『私はダニエル・ブレイク』『家族を想う時』の2作は、ケン・ローチの政治的信条が色濃く反映された作品だと言える。というと、何か説教臭いだけの映画かな、と思って敬遠される方もおられるかも知れない。実際のところ、私もその一人だった。しかし、何しろ齢83歳、50年以上のキャリアを積み上げてきた映画監督である。その手腕は円熟の極みに達し、闊達自在と言うべき語り口に観客は魅了されるだろう。劇中、ぶち殺したくなるぐらい嫌な奴が登場して主人公を酷い目に遭わせるので怒りに震えていると、次のシーンでは人間の善良さを称えたくなる様なハートウォーミングな展開が待っていて思わず涙したり、時にはユーモラスなやり取りでクスっと笑わせてくれたりもする。球の出し入れが上手いというか、観客心理を操縦する術を完璧に心得ているのだ。こういう言い方が適切かどうかは分からないが、2作とも本当に「面白い映画」として楽しませてくれる事は保証できる。
しかし、『私はダニエル・ブレイク』に比べると今作はより悲観的な色合いが高まっている様に思う。『家族を想う時』の原題は『Sorry We Missed You』という。これは、宅配業者が届け先が留守だった場合にポストへ入れる不在票の文句である。『私はダニエル・ブレイク』の原題『I,Daniel Blake』には、人間に様々なラベルを貼りつけて管理しようとする残酷な社会に異を唱え、一人の人間としての尊厳を回復しようとする意思が込められていた。劇中で主人公が「私はダニエル・ブレイクだ」と宣言した時、それは閉塞した社会に風穴を空ける言葉として、多くの同志に迎え入れられ喝采を浴びる。たとえ映画が悲壮なラストを迎えたとしても、そこに新たな連帯の足掛かりを読み取る事もできただろう。それに対し、『Sorry We Missed You』は、網の目の様に張り巡らされた物流ネットワークの中で数限りなく繰り返されている決まり文句に過ぎず、その言葉に囚われている限り労働者は己を縛る鎖を断ち切る事ができないのである。ラベルの貼られた荷物を休む間もなく宅配し続ける彼は、いつしか人間としてのアイデンティティをすり減らし、自身もまたラベルの貼られた「もの」と化すしかない。
主人公が不在票の余白に妻への伝言を残し、また残酷なシステムの中へと舞い戻ろうとする本作のエンディングには、世界がやがて迎えようとする暗い未来を示唆しているようで戦慄を覚える。いつの間にか絡め獲られたこの網の目から、私たちが逃れ出る時は訪れるのだろうか。

 

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今作と対を為す様な作品です。フードバンクでのあまりにも哀しい「食事」シーンが胸に迫る。

 

ケン・ローチ初期の代表作。これに出てくる体育教師がぶっ殺したくなるぐらい嫌な奴なんだよ!