事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

クリント・イーストウッド『リチャード・ジュエル』

この映画、アメリカでは公開後に少々物議をかもしていたらしい。というのも、劇中に登場するアトランタ・ジャーナルの女記者について、FBI捜査官に性交渉を持ち掛け、その見返りに内部情報を入手した、という風な描き方をしているからである。この点に関してアトランタ・ジャーナルを含むマスメディアや評論家が反発し、女性に対する偏見に満ちた根拠のない描写だ、と訂正を求めたという。確かに、この女性記者のエピソードは、どうも作り物めいていて映画の中で浮いている様な気がした。まあ、事実を映画化するにしてもある程度の脚色は仕方がないし、作り手の都合で事実と異なるものになってしまうのはハリウッド映画ではよくある話だから、この映画だけ槍玉に挙げても仕方がないと思うのだが、ご時世がご時世だけにこうした反応は当然の事かもしれない。
さて、近年は実話を基にした映画を様々な方法で撮り続けているイーストウッドの新作は、1996年に起こった冤罪騒動を題材にしたヒューマンドラマである。アトランタオリンピック開催中に公園に仕掛けられた爆弾を発見し、迅速に対応した事でテロから多くの人々の命を救った警備員リチャード・ジュエルは、逆にFBIから爆弾犯として疑われてしまう。その事実をマスメディアがすっぱ抜いた事で、彼を英雄視していた世間の空気が一変し、リチャードは猛烈なバッシングを受ける羽目になる。
一応、現時点で確定している事実を書いておけば、このリチャード・ジュエルに掛けられた容疑は全く根拠のないものであり、翌年の1997年にFBIは証拠不十分で正式に捜査対象から彼を除外している。また、2003年には真犯人が逮捕され、死刑判決を受けた。この事件は、臆断に基づいた捜査とマスコミの暴走によって無実の人が社会的リンチを受けた事例として日本でも報道された。TV番組の企画でオウム真理教事件で同様の被害に遭った河野義行さんとの対談も実現した筈だ。
英雄扱いされていた男が一転して加害者としての疑いを受ける、というプロットは、2016年監督作『ハドソン川の奇跡』に似ていると言えるだろう。しかし、『ハドソン川の奇跡』で主人公のサリー機長を演じたのは、誰もが認める名優トム・ハンクスである。片や、本作の主演は、『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』『ブラック・クランズマン』での怪演も記憶に新しいポール・ウォルター・ハウザー。この男、とにかく「何もできないデブのウスノロ」を演じさせたら天下一品で、本作でもそのウスノロぶりを如何なく発揮している。キャスティングにあたり、イーストウッドも彼の出演作を確認したと思うが、一目見るなり「めっちゃピッタリの奴おるやん!」と興奮したであろう事は間違いない。
でまあ、そのポール・ウォルター・ハウザーの演技も相まって、本作をご覧になった方は心のどこかでこう思ったのではないだろうか。
「このリチャード・ジュエルって人、無実なんだろうけど何かヤベえ奴だな…」
映画の中で、リチャード・ジュエルは法執行官という職業に対する憧れが非常に強い人物として描かれている。それはほとんど執着と言ってもいいぐらいで、実際にメリウェザー群で郡保安官補を務めた事もあるらしいが、例えば警備員の仕事をしていてもまるで警察官の様に人々を厳格に取り締まるので、何度もトラブルを引き起こしては職場をクビになっている。勝手に警察官の扮装をして街を歩いていた為に逮捕された事もあるらしい。いい歳こいて独身のまま母親と二人暮らし、税金も2年ぐらい払っていない。趣味の鹿狩りの為に自宅には大量の銃火器を保持している。見た目も度を越すぐらいのデブで、他人との会話も微妙にズレていていちいち噛み合わない。要するに、普通に街を歩いているだけで警察官から職務質問されそうな人物なのだ。FBIが疑うのも無理はない。
しかし、それでも彼は無実なのだ。リチャード・ジュエルは警備員としての職務を全うし、多くの人々の命を救った紛れもない英雄なのである。イーストウッドは、映画化にあたりリチャード・ジュエルの人となりを美化せず、ヤバい奴はヤバい奴として描く事で、「で?彼は無実だったんだけど?アンタがさっきまで抱いてた印象って、経歴とか見た目とかから勝手に導き出したものだよね?じゃあ、アンタと映画の中で騒ぎ立ててたバカ共とどこが違うわけ?」という問いを突き付けてくる。リチャード・ジュエルに関わる劇中の描写は観客に向けて仕掛けられたトラップなのだ。
と、いう訳で冒頭の話に戻るのだが、本作に抗議の声を挙げたマスメディアに対し、映画を製作したワーナー・ブラザーズはこう反論している。
「お前らが言うな」
憶測に基づいた一方的な報道や、自分が正義の側に与していると思い込んだ人々による容疑者への過大なバッシングは、96年にリチャード・ジュエルが受けた苦しみを省みる事なく、現在でも続いている。インターネットの発達した今、状況は更に酷くなっていると言えるだろう。人々は冤罪を掛けられた当人の心情を慮る事などせず、ただ無責任な正義をまき散らしてく。こうしたバカ共に思い知らせるには、同じ目に遭わせてやるしかない。女記者をめぐる描写は、人々の好奇心の餌にされたリチャード・ジュエルに代わって、イーストウッドが仕掛けたトラップのひとつだったのかも知れない。

 

あわせて観るならこの作品

 

同様のテーマを扱ったイーストウッド監督作。まあ、この映画でトム・ハンクスの事を「こいつ、ヤベえな…」と思う奴はいないよね。以前に感想も書きました。

 

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ポン・ジュノ監督のサスペンス・ミステリー(なのか?)。犯罪の容疑を掛けられた息子と、我が子の無実を信じ続ける母。過剰なまでに親密な母子関係とか、息子がウスノロだとか、共通点が結構あります。