事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ジェームズ・ガン『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』

スクリーンを躍動する肉体に全てを賭けるジェームズ・ガンの覚悟

もともと「DCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)」はマーベルの「マーベル・シネマティック・ユニバースMCU)」に対抗すべく、DCコミックスのスーパーヒーローたちが集結する『ジャスティス・リーグ』の映画化を核にしてその周辺作品を制作していく、という目論見だった。しかし、先陣を切った初期3作品の評判がすこぶる悪く、興行的にも苦戦してしまう。その為、「DCエクステンデッド・ユニバース」は当初の方針を転換し、シェアード・ユニバースとしての仕掛けよりも単独作品としての完成度を重視していく事となった。その結果、バットマンの敵役を主役に据えた『ジョーカー』の様な傑作が生まれたのだから何が幸いするか分からない。もちろん、『ワンダーウーマン』や『アクアマン』、『シャザム!』といった従来路線のスーパーヒーロー映画も続々と作られていて、この後も『ザ・バットマン』や『ザ・フラッシュ』などの公開も控えているが、これらの作品についてもユニバース化を見越した大掛かりな伏線などは見受けられず、あくまでDCコミックを原作とした単独の作品として作られている様だ(もちろん、後から無理やりに繋げる事は可能だろうが…)。
DCフィルムズの当初の計画を頓挫させた初期3作品が、ザック・スナイダー監督の『マン・オブ・スティール』と『バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生』、そしてデヴィッド・エアーによる『スーサイド・スクワッド』である。ザック・スナイダーを起用したのは『ウォッチメン』の実績を買っての事だろうが、『エンド・オブ・ウォッチ』や『サボタージュ』など犯罪映画を得意とするデヴィッド・エアーに監督を任せたのは理由がよくわからない。確かに『スーサイド・スクワッド』はDCコミックスヴィランたちが活躍する話だから犯罪映画と言えなくもないが…それにしたって脚本ぐらい他の人間に頼んだ方が良かったと思う。スーパーヒーロ映画が未経験だからという理由だけでなく、デヴィッド・エアーという人は基本的にいきあたりばったりの脚本しか書けないからだ。案の定、前作『スーサイド・スクワッド』は非常に抜けの悪い作品で酷評の嵐となった訳だが、これまた何が幸いするか分からないものでマーゴット・ロビーが演じたハーレイ・クイーンだけは評判が良く、『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』という単独作品が作られるまでの人気キャラクターとなった(この辺は『バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生』がガル・ガドットの演じたワンダーウーマンぐらいしか褒めるところが無かったのと似ている)。DC側もこのキャラクターを切るのは惜しいと思ったのだろう、『スーサイド・スクワッド』の続編制作に乗り出す。デヴィッド・エアーに代わって監督を務めたのは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』で一躍名を挙げたジェームズ・ガンである。ここでもDCはツイていたと言えるだろう。本来なら、ジェームズ・ガンは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』第3作の準備で忙しくそれどころではなった筈なのだが、Twitter上での過去の問題発言が原因で監督を降板させられたばかりだったのだ。後に、ディズニーはこの判断を撤回し、ジェームズ・ガンを監督に復帰させるのだが、とにかくこの冷や飯喰らいの期間が無ければ本作『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』は誕生しなかった訳である。
で、肝心の本作の仕上がりなのだが…何というか、ここまで才能の差が浮き彫りになるものか、と少々デヴィッド・エアーが気の毒になってしまった。監督と脚本を兼任しているのは両者とも同じだが、ひねりの利いたストーリーテリング、繊細なアクションの繋ぎ、的確な空間の捉え方、オタク受けするディテール描写まで、とにかく何から何までレベルが違う。その残酷なまでの差は映画の序盤、上陸作戦の場面を見るだけで一目瞭然だろう。前作ではのっけから登場キャラクターの紹介をダラダラと続け、早くアクションが見たい観客をイラつかせたものだが、ジェームズ・ガンはこのシークエンスで悪党たちの能力や経歴をスピーディなカメラ移動とアクションだけで簡潔に説明してしまう。しかも、最後に爆笑必至のひねりまで用意してあるサービスぶり。前作の主要メンバーだったキャプテン・ブーメランをここであっさり殺しているあたり、ジェームズ・ガンデヴィッド・エアーに対する強烈な皮肉を見て取る事ができるだろう。観客は別に、架空のキャラクターの人となりを知りたい訳ではなく、そいつらが銃をぶっ放し敵をぶちのめすアクションを見たいのだ。もちろん、それは映画にとって決して不健全な欲望ではない。
おそらく、デヴィッド・エアーは大変に真面目な人なのだろう。彼は『スーサイド・スクワッド』を実写映画化するにあたり、コミックスのキャラクター達が実在するのだと観客に思い込ませようとした。その為に、お偉いさん2人が経歴書を見る、というかたちでご丁寧にキャラクターの経歴や能力を説明し、後半ではウェットなエピソードを挿入し人間的な魅力を与えようとしている。しかし、それは単なる「本当らしさ」であって、映画が獲得すべき「リアリティ」とは言えないのだ。
ジェームズ・ガンは、コミックスのキャラクターが実在するとはもちろん思っていないし、観客に信じ込ませようともしていない。そんなものは全て絵空事だと分かった上で、スクリーン上で躍動する ハーレイ・クインやピースメーカーの肉体こそが映画にリアリティを与えると信じているのだ。アクションの連なりが観客のエモーションを徐々に掻き立てる。だからこそ、お涙頂戴的なエピソードなど無くとも、終盤の悪党たちの決断に私たちは涙するのだ。折しもアメリカ軍のアフガン撤退が決定されたこの時期に本作が公開された事は意義深い。最初から最後まで馬鹿々々しさに徹した本作が不意にアクチュアルな問題意識を獲得する。その様な奇跡が映画には起こり得るのだ。

 

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エンド・オブ・ウォッチ』のデヴィッド・エアーが監督した前作。この作品が成功していればベン・アフレックの主演、監督で『バットマン』の新作が作られ、ジャレッド・レトがジョーカーを演じていた筈。それはそれで観たかった気もするが…

 

ジョン・M・チュウ『イン・ザ・ハイツ』

手を変え品を変え、再生産されるアメリカン・ドリームの神話

賞レースを総ナメし空前の大ヒットを記録したブロードウェイ・ミュージカル『ハミルトン』のクリエイターであるリン=マニュエル・ミランダの初期作『イン・ザ・ハイツ』が『クレイジー・リッチ!』のジョン・M・チュウによって映画化された。ニューヨークのワシントンハイツで暮らすラテン系移民の姿を歌と踊りで描いた本作の監督として、これほどの適任はいないだろう。シンガポールを舞台にしたロマンティック・コメディ『クレイジーリッチ!』はキャストも製作チームもオールアジア系という異例の布陣が話題を呼び、白人の出ない映画はヒットしない、という固定観念を打ち破って大ヒットを記録した。現実の社会が抱えている多様性をいかにして作品に落とし込んでいくか、という課題を突き付けられている現在のハリウッドにおいて、最も注目すべき映画作家の1人だと言えよう。
ただ、ジョン・M・チュウという人は作品を通じ人種差別に対して怒りをぶつける、といった社会派タイプではなく、もっと商業主義的というか、とにかく誰が観ても楽しい映画を作る事しか頭にないのだと思う。今どき珍しいくらいにウェルメイドなストーリーとカラフルでポップな映像、ゴージャスでハイクオリティなサウンドを組み合わせたとにかくアッパーな作風がこの人の持ち味である。もちろん、社会的マイノリティに属している人がただ楽しいだけの映画を作ったり観たりしちゃいけない筈もなく、ジョン・M・チュウは自分の生まれ育ったコミュニティをバックボーンとして、エンターテインメントを作っただけの話なのだ。『クレイジーリッチ!』の様な作品が重要な意義を持つ作品として受け止められた事こそが、ハリウッドにはびこる白人至上主義がいかに根深いものであったかを逆説的に証明している。
という訳で、公開前から大きな期待を寄せられ批評家からの評価も上々だった本作だが、一方でワシントンハイツの実態を反映していない、という厳しい批判も寄せられている様だ。問題点は主に2つ。アフロ・ラテン系移民の多く住むコミュニティを舞台としながら、実際にはアフロ・ラテン系の俳優がほとんど登場しない、というカラーリズムに基づくキャスティングへの不信がひとつ。もうひとつは、女性キャラクターに対するステレオタイプでセクシュアルな描写である。本作に登場するニーナやヴァネッサといったキャラクターや、美容院に集う女性たちは、異国の女性に対して男性が抱きがちなエキゾチックな欲望の反映にしか過ぎないのではないか、という事だろう。こうした批判に対し、リン=マニュエル・ミランダは自身のインスタグラムで謝罪をするに至っている。
キャスティングの偏りについてはハリウッドでは当たり前というか、例えばフランス革命の映画をアメリカ人俳優だけで撮ってしまう、といったいい加減さ(別に悪い事だとは思わないが)は昔からあった訳だ。女性に対する画一的な描き方は言わずもがな、要するにハリウッド映画の抱える問題がここでも繰り返されているのである。これは、ジョン・M・チュウという監督が極めてハリウッド的感性の持ち主である事と無関係ではないだろう。スタンリー・ドーネンの『恋愛準決勝戦』を模したダンスシーンが挿入されている事からも分かるとおり、本作は最初からハリウッド・ミュージカルの系譜に連なろうという明確な意思が見て取れる。
従って、『イン・ザ・ハイツ』に対する批判は「ニューヨーク・ワシントンハイツで暮らすラテン系移民たちの姿を描いたミュージカル」という点に人々が過剰に意味付けしたが故のものだと言えよう。確かに、劇中では未成年の不法移民に対する保護政策「ドリーム法」の撤廃に人々が抗議するシーンが描かれている様に、人種差別を許容し不平等を生み出し続けるアメリカ社会への批判的な眼差しが込められてはいる。しかし、結局のところ本作はハリウッド映画が語り続けてきた「アメリカン・ドリーム」の神話のバリエーションに回収されてしまう。それは、革新的な製作体制で作られた『クレイジー・リッチ!』が典型的な「シンデレラ・ストーリー」であったのと同じである。その神話を信じた者たちが、新天地を求めてアメリカへやって来る。移民たちに自国を乗っ取られると思い込んだ排外主義者たちが奴らを追い出せと騒ぎ立てる。移民をめぐる問題は様々な軋轢や格差や分断を生んでいるのに、ハリウッドは未だに「アメリカン・ドリーム」の神話を再生産し続けているのだ。

 

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オールアジア系キャストというハリウッドの慣習を無視した布陣で製作されながら、大方の予想を裏切り大ヒットとなったロマンチック・コメデイ。実はこの作品でもマレーシア系イギリス人の俳優が中国系シンガポール人の主人公を演じる事や舞台となるシンガポールの描写について不満の声が挙がっていた。

 

劇中、コーリー・ホーキンズとレスリー・グレースがアパートの壁面でダンスをする印象的なシーンがあるが、これはスタンリー・ドーネン『恋愛準決勝戦』へのオマージュだろう。まるで重力など存在しないかの様にフレッド・アステアが壁や天井を踊り回るシーンはいま観ても驚く。

ロド・サヤゲス『ドント・ブリーズ2』

憎悪と孤独が生み出した怪物に引導を渡す為にこの続編は作られた

その奇抜な設定と緊張感漲る演出が話題を呼び、2週連続全米No.1を獲得するまでのヒットとなった『ドント・ブリーズ』。そのヒットにあやかるべく『ドント・スリープ』や『ドント・スクリーム』など数多くのパチもんが生まれては消えていく内に(もしかすると原題ではなく日本の配給会社が勝手に付けた邦題かも知れないが…まあ、どうでもいいか)、はや5年の歳月が流れた。いよいよ、待望の続編である。監督は前作の共同脚本を担当した、ロド・サヤゲス。前作で監督を務めたフェデ・アルバレスもまた脚本に参加しているので基本的には同じ布陣と言っていいだろう。
さて、私は先ほど「待望の」続編などと書いたが、実は待望など全くしていなかった。どう考えてもシリーズ化に向いたタイトルだとは思えなかったからだ。超人的な聴覚と腕力を備えた盲目の老人の家に強盗が押し入り返り討ちに遭う、というのが前作のプロットだったが、そんなに何度も強盗に遭う人もいないだろうし、まさか同じ事を繰り返す訳にはいかない。かといって、この老人は基本的に出不精なので街に出て人を襲う、といった事もしそうにない。もちろん、前作のラストで死んだと思われた老人が実は生きていた…という伏線は張っていたものの、まあそれはホラー映画のお約束みたいなもので製作陣に本気で続編を作るつもりがあったとは想像していなかったのである。
で、この続編なのだが…あにはからんや序盤から前作と全く同じ展開になるので驚いた。またもや、老人の家に強盗が闖入するのである。違うのはその家に娘が一緒に住んでいる事(ここは前作を観た方ならジジイまたやりやがったな、と思うところだろうが)と、強盗が前作の様なボンクラではなく完全にプロの集団だという事である。この変更によって、本作のストーリーはホラー映画からアクション映画のそれへと舵を切っていく。手に汗握るシーンはふんだんに用意されているが、それはホラー映画の緊張感というより、サスペンス映画のそれに近い。映画の中盤、娘をさらった強盗達のアジトに今度は老人が乗り込む、という風に攻守の反転する展開が見られるが、こうなるともはや『コマンドー』である。
しかし、だからといって本作が蛇足だとか柳の下のドジョウ狙いだとかいう訳では全くない。この老人は非常に同情すべき過去を持つと共に、全く共感できない狂気をはらんだ人物であった。言わば憎悪と孤独が生み出した怪物だったのである。その怪物に引導と救いをもたらす為、物語に真の終幕をもたらす為に『ドント・ブリーズ2』は作られた。ラストシーンの娘と老人の最後の会話は涙なくして観る事ができないだろう…と言いつつ、これで『3』が作られたらさすがに呆れるが、何が起こるか分からないのが映画というものである。

 

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もちろん単体でも楽しめる作品ではあるが、できれば前作から通しでご覧頂きたい。同じキャラクターを扱いながらここまでテイストの異なる映画を作れる、という意味でも面白い。

ジャスティン・リン『ワイルド・スピード/ジェットブレイク』

死者が何度も甦る世界で、生者の不在が暗い影を落とす

予告編でも明かされていた通り、シリーズ第9作となる本作ではハンという人気キャラクターがまさかの復活を果たす事となった。このシリーズは時系列がこんがらがってややこしいので簡単に説明しておこう。ハンが初めて登場したのはシリーズ第3作『ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT』からである。そもそも、初代『ワイルド・スピード』はストリート・レースに全てを捧げる若者たちの青春と友情を描きつつ、そこに派手なカースタントを盛り込んだ事で、カーマニアに限らず多くの観客から好評をもって迎えられた。しかし、続編である『ワイルド・スピードX2』では主役の一人ドミニクを演じていたヴィン・ディーゼルが降板し、更に東京を舞台にした『X3』ではブライアン役のポール・ウォーカーにも出演を断られてしまう。何とか頼み込んでヴィン・ディーゼルカメオ出演して貰ったものの、舞台を東京に移し心機一転を図ったのが裏目となったか、『X3』はファンからの評価も散々、興行的にも大失敗に終わる(ドリフトを駆使したカーアクションは良かったが)。その中でサン・カンが演じたハンの飄々としたキャラクターは、観客に強い印象を残し、ルーカス・ブラック演じる主人公ショーンがドミニクやブライアンと比べて今ひとつキャラが立っていないというか、そこら辺のとっぽい兄ちゃんにしか見えなかったのを見事に補っていた。しかしながら、ハンは映画の終盤、敵役とのカーチェイスの末に命を落としてしまう。つまり、彼はこの作品限りのキャラクターだった筈なのである(そもそも『X3』は 日本を舞台にした異色作という事もあり、その後のシリーズ展開の中でもほとんどフォローされる事がなかった)。
『X3』のラストにほんの少しだけ登場するドミニクが「ハンとは昔ファミリーだった」と感傷に浸るのだが、ここから続く『ワイルド・スピード MAX』『ワイルド・スピード MEGA MAX』『ワイルド・スピード EURO MISSION』は、その「ファミリーだった」頃、つまりハンが東京へやって来る『X3』以前のエピソードを補完するかたちで作られていた。時系列を遡る事でハンは最初の復活を遂げた訳だ。

ご存じのとおり、ストリートレースの要素を排除し、荒唐無稽さを増したカーアクションを前面に押し出した『ワイルド・スピード MAX』の大ヒットによってシリーズは見事な復活を遂げるのだが、その結果、続編が作られる毎に登場人物が増え続け、MCUの様なユニバース化を遂げていく事になった。物語の都合で過去に登場したキャラクターが呼び寄せられ、逆に用済みとなったキャラクターは適当な理由をでっち上げられて葬り去られていく。例えば、4作目『MAX』に登場したドミニクの恋人レティは、ブライアンの依頼で麻薬組織に潜入した為に殺害されてしまう。すると5作目『MEGA MAX』に登場したエレナという新人警官がドミニクと心を通わせる様になり、やがて彼女は警察を辞職してドミニクの犯罪チームに加わる。ところが、6作目の『EURO MISSION』に至って、死んだと思われていたレティが実は生きていたと判明しメンバーに復帰してしまう。そうすると、逆にエレナというキャラクターが邪魔になってくる訳で、気の毒な事にエレナは7作目『ワイルド・スピード SKY MISSION』ではドミニクのチームを抜けて警察に復職した事にされ、8作目『ワイルド・スピード ICE BREAK』でとうとうシャーリーズ・セロン演じる犯罪者サイファーに殺されてしまうのだ。しかも、エレナにはドミニクとの間に子供を設けており、その遺児を引き取るかたちでドミニクとレティは新しい家族を築いていく…果たして、これはいい話と言えるのか?
といった風に、作り手の都合で死んだと思っていたキャラクターが生き返ったり、あっけなく殺されたり、前作で死に物狂いの戦いを繰り広げた相手が次作ではあっさり仲間に加わり、バーベキューパーティに参加したりするご都合主義的な展開は、もはや本シリーズのお約束なので、最新作『ワイルド・スピード/ジェットブレイク』でハンが二度目の復活を果たすと聞いても特に驚かなかった。そもそも、『EURO MISSION』のラストでハンを殺した真犯人と説明された(これも完全に後付けなのだが)ジェイソン・ステイサム演じるショウが『ICE BREAK』でいけしゃあしゃあとドミニクの仲間となり、スピンオフ作品『ワイルド・スピード/スーパーコンボ』の主役に抜擢された時点で、観客も深く考える事をやめた筈である。劇中、ハンが生きていた理由を本人の口からごちゃごちゃ説明していたが、どうでもいいので内容は全く覚えていない。そんな説明が全く意味の無い後付けに過ぎないのは十分に分かった上でファンは楽しんでいるのだ。
しかし、いやだからこそ現実の交通事故で命を落としたポール・ウォーカーの演じていたブライアンの不在がどれほど大きいものだったのかが観客にも伝わってくる。ポール・ウォーカーの死は、撮影途中だった『SKY MISSION』の内容や今後のシリーズ展開に大きな変更を迫る事になったが、作り手たちはブライアンはドミニクの妹ミアとの間に子供が生まれた事をきっかけに犯罪チームから引退した、というかたちで『ワイルド・スピード』の物語から彼を退場させた。前述のエレナの様に適当な理由を付けて物語の上でも死んだ事にする、という方法もあった筈だし、その方がその後の展開の整合性も取れたと思うのだが、作り手たちは虚構とはいえポール・ウォーカーに二度目の死を与える事が残酷に過ぎると考えたのだろう。以降、シリーズは「ブライアンは家族と一緒に幸せに暮らしている」という虚構を抱え込む事で、彼の不在を乗り越えようとしてきた。それは必然的に物語に避けられない歪さを呼び込む事になる。妻のミアはその後の作品にも登場するのに、生きている筈のブライアンだけは決して姿を現さない。ドミニクは自分の息子に―生きている筈の友人に哀悼の意を示すかの様に―ブライアンという名前を付ける。最新作でも、ブライアンに協力を求めようという仲間の言葉を、ドミニクは頑なに拒む事しかできないのだ。作り手の都合で何度でも死者が生き返る世界の中で、生きている筈の男の不在が、動かしようのない現実として映画に暗い影を落とし続けている。エンディングの直前に登場する青いGT-Xは、作り手たちがその不在に耐えられない事の証なのだ。

 

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本作ではとうとう、車にジェットエンジンを搭載して宇宙にまで飛び出してしまう訳だが、シリーズを追う毎に荒唐無稽さを増していく、という意味では一時期の007シリーズを思わせる。さすがのボンド・カーも宇宙には行けなかったが。

ジョン・スー『返校 言葉が消えた日』

手際よくまとめられた語り口が映画とゲームの本質的な違いを際立たせる

 この映画の原作は台湾製のインディーゲーム『返校 -Detention-』で、私もNintendo Switch版をプレイしている。ゲームシステムは横スクロールのマップが何層にも重なったフィールドをキャラクターを操作して探索するアドベンチャーゲームで、同じホラーゲームで映画化された事もある『トワイライトシンドローム』からの影響が色濃いのだが、1960年代戒厳令下の台湾という一風変わった舞台と、ホラーの文脈で白色テロの恐怖を描いたゲームとして話題となった。開発者によると、このゲームはエドワード・ヤンに代表される台湾ニューシネマからインスピレーションを得ているらしい。私も何となく『牯嶺街少年殺人事件』に似ているな、と思いながら遊んだ覚えがある。結果的に、本作は台湾のみならず世界的にも注目を集めて大ヒットとなり、その勢いを駆って本国で映画化、更にはNetflixでドラマ化まで決定した訳だ。このゲームを開発した赤燭遊戲(Red Candle Games)は最新作が思わぬトラブルで発売中止になるなど一時は苦境に立たされていたが、それでも倒産を免れたのは『返校 -Detention-』のIP展開が成功した事もあるのだろう。
とはいえ、いくら設定が『牯嶺街少年殺人事件』に似ているからって、あれほどの完成度を映画版に期待してもしょうがない。台湾製の変わり種ホラーとしてそこそこ面白かったらまあいいかな、ぐらいの気持ちで観に行ったのだが、いやなかなかの完成度である。ホラーゲームの映画化といえば、『サイレントヒル』の様な成功例から、『トワイライトシンドローム』みたいなどうしようもないものまで色々とあるが、本作はその中でもトップクラスの部類に入るのではないか。台湾ニューシネマ以降、私たちは台湾映画に縁遠くなってしまったが、その間にこれだけ面白い娯楽映画を生み出す環境が整っていたという事なのだろう。
ところで、ひと口にゲームの映画化作品といっても多種多様な手法が考えられる。よくあるのが、原作ゲームが持っていたコンセプトや世界観は共有しつつ、映画オリジナルのストーリーを採用するパターンだろう。当初からメディアミックスを意識している場合だと、映画版のストーリーもゲームと齟齬を来さない様に気を配っている事も多いが、ポール・W・S・アンダーソンの『バイオハザード』の様に、シリーズを重ねる内にもはやゲームとは何の関係も無い展開になっていく場合もある。その反対に、ゲームの忠実な映画化というのは意外に少ない。というのも、ゲームのストーリーとはユーザーが能動的にプレイする事で形作られていくのに対し、映画のストーリーとは最初から完成したものを観客が一方的に享受するものだからである。つまり、いくらゲームと同じプロットを有していても、例えばプレイヤーがダンジョンで迷ってウロウロしたり、ボスキャラと戦ってゲームオーバーになったりといった、個々のプレイヤーが作るストーリーを映画が再現する事はできない。しかし、そもそもゲームの中に登場する敵キャラや謎解きや入り組んだダンジョンは、全てそれぞれのプレイヤーに異なった体験(ストーリー)を楽しませる為に用意されているのだ。私たちがゲームの映像化作品にいつも物足りなさを感じるのも、自分の体験(ストーリー)が映画の中で語られていない、という解消される事のない不満を感じるからだろう。
原作は小規模なデベロッパーが作ったという事もあり、比較的短時間で終わるゲームだったが、それでも主人公の行く手を阻むクリーチャーや謎解き要素が幾つも用意されていた。映画版ではそうした要素をできるだけ減らし、ゲームの中で語られていたストーリーを分かりやすく整理し、エモーショナルなドラマとして提示している。監督のジョン・スーはこれが長編映画デビュー作らしいが、台湾最大のマシニマ(ゲームのカットシーンやプレイ映像を編集し繋ぎ合わせ、独自の物語を語る映像作品)制作グループ出身という事もあり、混乱したゲームプレイ(プレイヤーがクリーチャーに捕まったり、謎解きに迷って進めなくなったりする度に、ゲームのストーリーは反復し停滞する)の中から明確なプロットを抜き出す技術に長けている様だ。しかし、そのすっきりとした語り口が原作の持っていた曖昧で模糊とした独特の空気感を損なってしまった様にも思う。何が起こっているのか判然としない世界の中で、手探りで真実を解き明かす感覚はやはりゲームならではの体験だという事なのだろう。

 

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せっかくだから、 『返校 -Detention-』に影響を与えた2つのゲームの映像化作品を紹介しよう。こちらはKONAMIの名作ホラーゲームを『ジェヴォーダンの獣』や『美女と野獣』のクリストフ・ガンズが映画化。この作品が秀逸なのは、映画として一貫したプロットを構築しつつ、原作のゲーム体験をストーリーに落とし込んでいるところだろう。ビジュアル的な再現度も高く、作り手の原作に対する愛情が伝わってくる。

 

国産ジュブナイルホラーゲームの映像化作品。NintendoDS用ソフト『トワイライトシンドローム 禁じられた都市伝説』の発売に合わせ、2本の映画作品が公開された…が、原作の設定を完全に無視し、当時流行していたデスゲーム映画に改変されている。原作に対する愛が全く感じられないのはいいとして、登場人物が終始ギャーギャーうるさく、しかも全く感情移入できないバカばかりなのでさっさと全員死んでくれとしか思えないのはデスゲーム映画として致命的だろう。

村瀬修功『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』

観てから読むか、読んでから観るか?それが問題だ

この映画、ガンダムシリーズの劇場公開作品としては『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』以来の大ヒットとなっているそうだ。私は小学生の頃、『機動戦士ガンダムZZ』をリアルタイムで観ていて、その流れで『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』が公開された際に友人と観に行った記憶がある。正直、あまりにつまらないので途中で寝そうになった。当時の私は『機動戦士ガンダム』も『機動戦士Zガンダム』もちゃんと観ていなかったので、何が何やらよく分からなかった事、また単純明快なロボットアニメとして製作された『ZZ』と比べて余りにも暗い内容に馴染めなかったのだろう。ただ、何か気色悪いなあ、と感じたのは覚えていて、それはクェス・パラヤシャア・アズナブルの関係性に嫌悪を抱いたからかもしれない。今回、『閃光のハサウェイ』を観るにあたり『逆襲のシャア』も見直してみたがその印象は変わらなかった。
ガンダムシリーズ―と言っても私は宇宙世紀篇の初期作品しか観ていないのでそこに限定しての話だが―では、主人公たちの運命を左右するファム・ファタルが必ずといっていいほど登場する。初代『機動戦士ガンダム』に登場したララァ・スンが最も有名だが、『Z』のフォー・ムラサメにせよ『ZZ』のエルピー・プルにせよ、いずれも同じようなパーソナリティの持ち主―幼児性が顕著で情緒不安定で、時にエキセントリックな言動で人々を振り回しもする―であり、それがニュータイプとしての精神的な脆さ、あるいは女性としての魅力として描かれていく。こうした女たちに主人公を含む男たちが引き寄せられる、というのが初期作品に共通する構図だ。男たちは家族関係において何らかの欠乏感を抱いており、その欠落を女たちによって埋めようとする。前述の『逆襲のシャア』においても、シャアが「ララァに母を求めていた」と告白するシーンがあるのだが、こうした男と女のこのいびつな関係性をモビルスーツによる戦闘描写のバックグラウンドとして用意した事が、ガンダムシリーズをそれまでのロボットアニメと異なる次元に押し上げた要因だろう。その延長線上に『新世紀エヴァンゲリオン』といった作品が存在するのは指摘するまでもない。
その『逆襲のシャア』に登場した(初登場は『Z』だが)ハサウェイ・ノアが本作の主人公となる。彼は『機動戦士ガンダム』でアムロ・レイと共に戦った、戦艦ホワイトベースの艦長ブライト・ノアミライ・ヤシマ少尉の息子にあたるのだが、『逆襲のシャア』ではこれまた非常に気持ち悪い青年として描かれていた。彼は、前述したクェスという少女に好意を持っていたが彼女は地球を裏切り、シャア率いるネオ・ジオン軍のパイロットとなる。クェスを諦めきれないハサウェイは父親が艦長を務める戦艦に無断で乗り込み、挙句はモビルスーツを勝手に拝借して戦場に出るものの、目の前でクェスが殺された事に逆上し味方機を撃墜してしまう。彼の人となりは何となく『Z』に登場するカツ・コバヤシを思わせるのだが、この視野の狭さと異性に対する依存的な態度は、ガンダムシリーズに登場する男たちが持つ病の如きものかもしれない。
男たちが抱える病の症例として、大規模なテロ行為が描かれていく。これは『逆襲のシャア』と『閃光のハサウェイ』に共通するテーマだろう。クェスを失い、仲間を殺害した罪悪感に囚われていたハサウェイは、マフティーという反政府テロ組織の活動に身を投じていたが、たまたま出会ったギギ・アンダルシアという少女―またもや、ファム・ファタルのモチーフが反復される―に出会った事から、運命の歯車が音を立てて回り始める。本作は3部作の1作目という事もあり、まだ導入部とでもいうべき内容なのだろうが、それでも臨場感溢れるダバオ空襲シーンなど見どころは多い。村瀬修功による演出は富野由悠季が築いたアニメーションの演出技法を現代ハリウッドの文法に合わせてアップデートさせた、という印象がある。アクションだけではなく、会話シーンにおいてもそのカットの割り方や小道具の使い方は極めて洗練されており、いかにもアニメっぽいわざとらしさが皆無なのは驚きだ。その意味で、『閃光のハサウェイ』はガンダムファンでなくともお勧めできるエンターテインメントに仕上がっている…と言いたいのだが、実際はそうでもない。本作を楽しむには、やはりある程度の予備知識が必要とされるからである。序盤から展開する混み入ったストーリーは、『機動戦士ガンダム』『Z』『逆襲のシャア』の内容をある程度知らないとどうしても置いてけぼりにされた様に感じるだろう。
更に、本作は富野由悠季の原作小説を再現する事に腐心するあまり、1本の映画としての構成に問題が生じている様に思う。簡単に言ってしまえば、主人公ハサウェイ・ノアがマフティーである事を観客に隠したいのか隠すつもりがないのかがよく分からないのだ。何となく、その事実を伏せたまま話を進めてクライマックスにハサウェイの正体を明かす、という風にしたかった様に思えるのだが、そのわりにはハサウェイの行動が序盤からいかにも怪しすぎるし、謎めいた人物が周囲をウロチョロしているので、どんでん返しとしては機能していない。かといって、ハサウェイ=マフティーという事実を最初からはっきり明かしている訳でもないのだ。原作小説を読んでいる観客と読んでいない観客のどちらを想定しているのか、どうも腰が定まっていない様に感じた。正直、このプロットであればクライマックスまでハサウェイの正体を隠して観客を驚かせる、というかたちを採った方が良かったと思うのだが…本作の完成版を観た富野由悠季が「映画としてもっと構成を考えてはどうか」とプロデューサーに伝えたのもそうした点ではないかと思う。
といった風に語り口のレベルでぎくしゃくしたところ、説明不足な点が散見されるのは惜しいが、それでも圧倒的とも言える作画のレベルの高さは一見のが価値ある。同時期に公開される富野御大の『劇場版 GのレコンギスタⅢ 宇宙からの遺産』と見比べてみるのも面白いかもしれない。

 

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最低でもこれぐらいはチェックしておいた方がいいだろう。改めて観ても本当に異常な作品である。

石川慶『Arc/アーク』

深淵なテーマを内包したSF映画の力作だが前半と後半の乖離が惜しい

『愚行録』『蜜蜂と遠雷』で高い評価を得た石川慶監督の新作は、日本では珍しい長編SF映画である。原作は中国系アメリカ人のSF作家、ケン・リュウの短篇小説「円弧」。ケン・リュウは日本でも短篇集が何冊も翻訳され、是枝裕和監督の『真実』でも「母の記憶に」という短篇小説が作中作として映像化されていたのでご存じの方も多いかもしれない。
アニメやゲームと異なり、実写の国産SF映画となると我が国では非常に少ない。もちろん、『GANTZ』の様にコミックの映画化はあるが、小説、しかも海外作家の作品となると異例と言ってもいいだろう。折しも、アメリカのSF作家ロバート・A・ハインラインの名作を映画化した、『夏への扉 ―キミのいる未来へ―』が同時期に公開されており、日本の映画界に新しい潮流が生まれつつある事を期待させるが、残念ながら両作とも興行成績は苦戦している様である。我が国でもSF映画そのものへの需要はあると思うのだが、やはり日本人が主演する、となると歯が浮いた感じがするのかもしれない。
もちろん、日本の市場規模ではハリウッド並みの予算を掛けたSF超大作映画を作る事など不可能である。いくらCGやセットにお金を掛けても、ハリウッドには到底かなわないし、ビジュアルに凝れば凝るほど貧乏くささばかりが目に付いてしまうのはよくある話だ。従って、日本でSF映画を撮ろうとすればそれなりの戦略が必要となる。例えば、本作が時代設定を近未来に設定し、現実の景色をそのまま映画の中に取り込んでいるのも、そうした戦略のひとつだろう。これがもし100年後、200年後の未来だったら街の風景も人々の生活も今とは様変わりしているしている筈で、すると建物やら交通機関やら衣服やら何から何まで作り込まなければならず、膨大な予算と時間が必要となる。
しかし、不老不死をテーマとする本作では、主人公のリナが19歳から132歳になるまでを描いているので、物語上は100年以上の時間が経過していく。非常にスケールの大きい話である。これだけの時間があれば社会もドラスティックに変化していくだろうから、作り手にはその変化をどう描くか、という問題が課せられる。89歳になったリナを描く映画の後半に至って、映像がフルカラーからモノクロに切り替わるのは、こうした問題を回避する為だろう。時系列的には前半部から数十年後の未来を描いている筈のパートをあえてモノクロで撮影し、舞台を古民家の立ち並ぶ孤島(小豆島でロケを行ったらしい)に限定する事で、石川慶はまるで時間軸から切り離された不思議な空間を作り出している。この「時間軸から切り離された」という点が不老不死のメタファーである事は言うまでもないが、この様な戦略によって『Arc/アーク』は未来の世界を直接的に描かずに済ませているのだ。
とはいえ、即物的な描写は最低限に留められ、どちらかと言えば淡い印象の短篇だった原作を長編映画として再構成するならそれなりのディテール描写は必要とされるだろう。モノクロで語られる後半パートについては先述した和風レトロフューチャー的な戦略が功を奏し、非常に見応えのある映像になっているが、フルカラーの前半部分については、頑張っているとは思うものの、やはり貧乏くささが拭えないのが惜しい。
例えば、不老不死になる為には高額の施術料が必要である事に反発した人々が暴動を起こし、エタニティ社に押し寄せる場面など、もう少し迫力ある描き方ができなかったものか。何か学生運動でもやっている様な兄ちゃんが4、5人、工場の敷地みたいな場所をうろちょろしているだけで、リナはその兄ちゃんらに取っ捕まるのだが、別に暴力を振るわれる訳でもなく、ただグチグチと難癖を付けられるだけで、しかもその経験がリナに何らかの影響を及ぼす訳でもない。原作でも僅かに触れられているに過ぎない描写を、なぜここまで膨らませる必要があるのか分からなかった。死体を標本化するプラスティネーション技術の工程をコンテンポラリーダンス風に解釈したのは映像作品として非常に面白いアイデアだが、リナにプラステーションの才能がある事を示す為だろう、映画の導入部からよく分からないダンスシーンが始まるのも面食らった。そのダンスを観たエタニティ社の理事エマが「アンタ、若いのにいいもん持ってんじゃない。良かったらウチに来な」とリナに名刺を渡すところから物語は始まるのだが、こんな昭和の少女漫画みたいな始まり方をする映画が今どきあるだろうか。本来は老境に差し掛かったリナの回想という形式で語られる原作小説を脚色するにあたり、時系列順にエピソードを並べ、それぞれのエピソードを膨らませていったのはいいが、例えば後半に語られるリナの生き別れの息子のエピソードが非常に印象的なのに対し、ただ説明臭いだけで別に面白くもないエピソードが前半部に集中しているバランスの悪さが目立つ。というより、そもそも前半パートが後半パートの為の説明臭い前フリに過ぎないのだが…
と、色々と惜しいと思うところはあるものの、『愚行録』『蜜蜂と雷鳴』で見せてくれた石川慶監督の的確な演出とシュールな映像美は本作でも健在である。残念ながら興行成績が振るわず、感想を書くのに手間取っている内に公開が終わってしまったが、機会があればぜひご覧頂きたい野心的な力作だ。

 

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