事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ヨアキム・トリアー『私は最悪。』

何度も選び間違いを繰り返して、私はいまここに立っている

会社の同僚が適応障害により休職する事となった。私の仕事そのものには何も影響はないのだが、本来自分こそ休職すべき人間ではないのか、という気がして仕方がない。とにかく、毎日何をするのも嫌でたまらず、朝が来る度に憂鬱な気分に襲われる。一体、なぜこんな事になってしまったのか。人生の様々な場面で私たちは何らかの選択を迫られるが、その延長線上に今の自分がいるとして、どこでどう間違ってしまったのか。今更ながら過去を振り返ってみると、何ひとつ真剣に考えず場当たり的な選択を繰り返してきた事に気づいて愕然とする。そりゃロクな人生にならない筈だよ…後2年ぐらいで寿命を迎えるならまだしも、これから何十年も生きていかなくてはならないのに希望が全く見出せない。だったら、将来の自分をより良くする為に今からでも自分の人生を見つめ直したらどうなんだ!こんなどうしようもない愚痴を長ったらしくダラダラ書いてる暇があったらさあ!
『わたしは最悪。』の主人公、30歳になるユリアもまた、人生における様々な選択を深い考えもなく行ってきた女性である。現在の恋人であるアクセルとの関係があるパーティでの出会いから始まった様に、招待客のふりをして紛れ込んだウェディング・パーティで彼女はアイヴィンと意気投合し、アクセルの許を去る事になる。しかし、よくあるラブ・ストーリーの様に、その選択が彼女の人生を一変させ、ハッピーエンドへと導く訳ではない。外科医を目指していたのに心理学へ専攻を変えたかと思えば、フォトグラファーを志しながらも作家にも憧れるユリアは、またここでも衝動的な選択に身を任せ、結局は何も持っていない自分、何者にもなれなかった自分を思い知る事になるのだ。
行き当たりばったりとしか思えないユリアの言動に苛立ちを覚える方もいるかもしれない。私たちは物語の登場人物にいつも首尾一貫した態度を望んでしまう。なぜなら、私たちの人生は映画ほど論理的ではなく、矛盾だらけで不可解で、ずさんでいい加減なものだからだ。規則正しく、整然と主人公が「成長」していく物語は、人生の不可解さに振り回されている私たちを束の間安心させてくれる。ところが、『私は最悪。』にはそんな分かりやすい「成長」は存在しない。当時や人物たちは皆、感情や衝動に駆られて場当たり的な言動を繰り返す。かといって、そうした己の過ちを反省し人間的な成長を繋げていく訳でもない。安易な振る舞いが自分や他人を傷つける結果となっても、彼らはまた同じ過ちを繰り返してしまうのだ。それはまさに「最悪」の愚かさなのかもしれない。しかし、そうした愚かさと無縁な人間など果たして存在するだろうか。
誰もが皆、何度も選び間違いを繰り返した挙句、ここに辿り着いた。自分が今立っている場所に満足した訳ではないけれど、後ろを振り返れば、ここまで自分が歩いてきた足跡がはっきりと見える。よたよたとふらついて、決して格好の良い足取りではなかったとしても、それを愛しく思える日々がいつか訪れるだろう。その日がやって来るまで、私たちはまた何かを選び取って前に進んでいく。

 

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テルマ(字幕版)

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『私は最悪。』と同じく自我の解放、というテーマをホラー/サスペンスのフォーマットを借りて描いた一作。ある意味では日本の超能力少女ものと似た構造を持っている。