事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ジョナサン・デイトン他『バトル・オブ・セクシーズ』

 

ここ最近、ハリウッドではトランプ政権下の排他主義的な社会風潮に警鐘を鳴らす作品が次々と撮られているが、その中に新たな秀作が加わった。1973年に実際に行われた、女子テニスの世界チャンピオン、ビリー・ジーン・キングと元男子チャンピオン、ボビー・リッグスのエキシビジョン・マッチの顛末を描く本作は、当時吹き荒れたウーマン・リブ旋風を背景に、自由と平等を求める女性たちと、旧態依然の価値観にしがみつく男性優位主義者たちの姿を、2人のテニスプレイヤーに仮託してみせる。

女性は男性に比べて体力、精神的な強靭さに劣るのだから、男性に守られてしかるべきだ、というマチズモを、テニスの試合で引っ繰り返して見せる事。まさに性差を超えた戦い―「バトル・オブ・・ザ・セクシーズ」という訳である。しかし、当時の観客はその様に理解してカタルシスを得たのかも知れないが、現代を生きる我々にとって、事はそう単純ではない。
女性が体力、精神的な面で男性を上回る場合がある、それを実地に示してみせたところで、強い者(マジョリティ)が弱い者(マイノリティ)を保護する関係性を否定するどころか、むしろ強化するだけだろう。その様な「保護」は一方的に与えられるものであるが故、また一方的に打ち切られる可能性もはらんでいる事は、別段アメリカでなくとも我が国の現状を見れば明らかだろう。このエキシビジョン・マッチでの女性側の勝利を人々が熱狂的に受け入れたのは、その(真に差別的な)社会通念を揺るがすものではなかったからである。
だからこそ、ビリー・ジーン・キングが同性愛者であった、という歴史的事実が、本作の構成の中でいささか浮き上がった要素として描かれているのは重要である。「男性」と「女性」であれば、ネットを挟んだテニスコートの片面ずつに配置し、対峙させる事ができるかも知れない。しかし、セクシャルマイノリティはその様なネットを境界としたシンメトリックな空間を解消する存在なのだ。試合に勝利したビリー・ジーン・キングが控室で泣き崩れる時、彼女は自らがテニス的な空間と相容れない存在である事を決定的に知ってしまったのである。