事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ジュリア・デュクルノー『TITANE チタン』

人と車、男と女、親と子、性愛と暴力のあわいに立つ存在の儚さ

少し前に実子ブランドン・クローネンバーグの『ポゼッサー』という作品を紹介したが、フランスの俊英ジュリア・デュクルノーは影響を受けた監督の1人としてデヴィッド・クローネンバーグを挙げており、本作にも『ビデオドローム』や『クラッシュ』を思わせる肉体変容描写、フェティシズム描写が頻出する。ただ、塚本晋也の『鉄男』もそうだが、こうした肉体と異物、特に金属との融合というテーマはマスキュリンな価値観に流れやすい(金属って何かカッコイイから、というアホみたいな理由による)。しかし、この映画では主人公の肉体に埋め込まれた金属が全身を侵食していく過程で、男と女、親と子といった、私たちを縛り付ける社会的な関係性すらもなし崩し的に融合されていく。このボーダレスな視点はジュリア・デュクルノーが現代を生きる女性である事を意識させずにはおかない。だからこそ、本作に対し主に男性の観客から感情的な反発を招きもするのだろう。
まず、映画の序盤に描かれる主人公アレクシアの無軌道な暴力に圧倒される。彼女は金属製のヘアピンを使って男女の見境なく次々と人を殺めていくが、明確な動機がある訳ではなく、さりとて殺人という行為に快楽を見出している風にも見えず、更に狂気などという言葉も似つかわしくない彼女の、どこか倦怠に満ちた殺人鬼っぷりは、この手の映画を見慣れている筈の観客の共感や理解すら受け付けない。シリアル・キラーを題材とした映画では、犯人の性倒錯ぶりが(全ての性倒錯者が犯罪者予備軍であるとでも言いたげに)ことさら強調されたりするものだが、アレクシアの性倒錯は我々の理解を遥かに超えている。モーターショーのショーガールとして働く彼女はある夜、何と意思を持った車とSEXをしてしまうのだ。それは異性愛や同性愛という範疇を超えた超・変態的な性愛であり、先述の『クラッシュ』からの明確な影響が窺えるのだが、同作がエロスの極限としてのタナトスに憑りつかれた人々の物語であったのに対し、本作ではそもそもエロスの探求が放棄されている。アレクシアと車の間には生身の人間同士の内面的な交感が成立しないからだ。ここで描かれるのは温もりを持った皮膚と冷たいメタルボディの表面的な接触だけなのである。
そのアレクシアを苛立たせるのは彼女が妊娠しているという事実、あと数か月もすれば自分が「母」を中心とする関係性に絡め取られてしまうという予感だ。無差別殺人犯として指名手配されたアレクシアが10年前に失踪した少年アドリアンになりすまし、その父親ヴァンサンの許に身を寄せるのも、警察の手から逃がれる為というより、女性から男性へと変貌し母になる事を拒否しようとする振る舞いなのである。現代を生きる女性にとって妊娠する事、母になる事は決して喜ばしい幸福とは言えず、むしろ恐怖を伴う身体的変容であり、体内から異物を排出するおぞましい行為なのだ。こうした女性としての皮膚感覚をボディ・ホラーとして描き切った点に本作の妙味があると言えるだろう(そういえば、カニバリズムを扱った前作『RAW 少女のめざめ』でも、主人公の変異は皮膚から生じていた)。
押しつけがましいヴァンサンの愛情に耐え切れず、一時は家を飛び出そうとしたアレクシアは結局、ヴァンサンの「息子」として生きる事を選ぶ。そこにはステロイドの過剰摂取で憔悴する「父親」への同情があったのだろうか。あるいは、ヴァンサンの元妻からの脅迫に屈したからだろうか。自分の両親を焼き殺して平然としている彼女にしては些か不自然に映る選択だ。本作をフェミニズム的文脈から捉えようとした場合、アレクシアのこの「父性」への共感あるいは屈服がどうしても理解しにくい。これを映画を貫くテーマの非一貫性と難じる事もできるし、金属に身体を侵食され、やがて人間と車のハイブリッド・チャイルドを出産する事になるアレクシアの、人間的な感情の揺れを描いたと称賛する事も出来るだろう。いずれにせよ、ここでは人と車、男と女、親と子、そして性愛と暴力のあわいに立つ存在の、儚くも美しい揺らめきが刻印されてはいる。

 

あわせて観るならこの作品

 

RAW 少女のめざめ(字幕版)

RAW 少女のめざめ(字幕版)

  • ガランス・マリリエール
Amazon

性に対する衝動、自我の解放といった青春映画ではお馴染みのテーマにカニバリズムという要素を無理やり接続させた監督第一作。観る者の嫌悪感を掻き立てる様な過激な描写はこちらの方が上かも知れない。