事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ポール・トーマス・アンダーソン『ファントム・スレッド』

 

ポール・トーマス・アンダーソンの新作は、50年代の英国オートクチュールの世界を舞台に、偏屈なドレスデザイナーと田舎のカフェウェイトレスの愛を描く。しかし、本作はこの設定から想像する様な、田舎者の娘が華やかな都会暮らしの中でレディになっていく姿を描いた『マイ・フェア・レディ』の様な話ではない。また、いくら劇中に幽霊が登場するといって、気難しい富豪が過去を受け止める事で愛と優しさを取り戻す様を描いた『クリスマス・キャロル』の様な話でもない。じゃあ、どんな話なんだといえば、谷崎潤一郎『刺青』が近いかもしれない。
アルマがレイノルズに採寸される場面を観れば分かる通り、例えオートクチュールであったとしても、テーラーと顧客には絶対的な支配関係が生まれる。テーラーは顧客の身体を細部まで採寸し、数値化する。採寸の邪魔にならない様に、顧客は不動の姿勢を取らねばならない。こうした非人間化のプロセスを経て仕立てられたドレスはしかし、顧客の身体をより拘束するものとして存在する。胸の小さい事を気にするアルマに、レイノルズは「必要であれば、胸は私が作る」と嘯く。つまり、服飾とは着る者の身体を反映するのではなく、デザイナーの意図したシルエットに身体を変形させるものなのである。レーヨンやポリエステルといった伸縮性に富む化学繊維の無かった50年代において、その傾向はより強かった筈だ。
こうした支配関係を、ポール・トーマス・アンダーソンはラストにおいて鮮やかに反転させてみせる。レイノルズと彼の作ったドレスの前にあまりに無力だったアルマは、ある暴力的な手段によって夫を無力化してしまう。前半のゆったりとしてロマンチックなカメラワークと、後半のドライで即物的なショット。演出のタッチで夫婦関係の変化を描き分けるあたり、お見事と言うしかない。