事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ウテール・ベン・ハニア『皮膚を売った男』

主人公に富をもたらし束縛するものを、実は私たちも背負っている筈だ

第93回アカデミー賞で国際長編映画賞にノミネートされ、第77回ヴェネチア国際映画祭ではオリゾンティ部門男優賞を受賞した本作、まず何とも人を喰った様な奇妙な設定が目を惹く。
不用意な発言によって国を追われシリア難民となったサムは、出国先のレバノンで出会ったジェフリー・ゴドフロウという芸術家から奇妙な提案を持ち掛けられる。それは、多額の報酬と引き換えに、背中にタトゥーを施し彼自身がアートになる事だった。「今は、人よりも物の方が自由に移動できる」と、ジェフリーは嘯く。芸術品であれば美術館での展示という名目で、世界中を自由に往来できる。国を追われた際に離れ離れになった恋人にも会いに行ける筈だ。難民という立場を逃れる為に契約書にサインしたサムの背中に、ジェフリーはビザを模したタトゥーを彫るのだった―
とはいえ、本作は全くのフィクションという訳ではない。監督のカウテール・ベン・ハニアは、ベルギーのアーティスト、ヴィム・デルボアの「TIM」という作品にインスピレーションを得たと公言している。これは、ティム・ステイナーという男性の背中にタトゥーを入れた作品で、展覧会に出品される際は、ステイナー本人が観客に背を向けて椅子に座っているらしい。『皮膚を売った男』では、刺青を彫られたサムが展覧会でじっと座っているシーンが何度も挿入されるが、おそらくハニア監督がルーブル美術館で「TIM」を観た際の衝撃がこれらのシーンに込められているに違いない。
ヴィム・デルボアにはこの他に「Art Farm」という、豚の全身に刺青を施した作品もある。これに対しては動物虐待ではないか、と裁判まで起こされ違法と判決が下されたらしい(それ以降、デルボアはベルギーを離れ中国へ移住する事になった)。当然ながら、私たちは食用の為に大量の豚を育て、殺している。それに対しては誰も文句を言わないのに、芸術のキャンバスに数頭の豚の身体を使用すると法や倫理に反していると糾弾されるのだ。それでは、これが双方の合意に基づく人間の場合ならどうなのだろうか。やっている事は同じなのに、豚なら駄目で人間なら良いのか。そもそもモラルというものは国や時代によっていくらでも変わるものだし、自国の常識が他国によっては非常識、というのも往々にしてある事だ。デルボアのスキャンダラスなアートは、私たちの道徳や倫理の矛盾を衝き挑発する。そういう意味でデルボアは紛う事なきダダイストだと言えるだろう。
当然、ハニア監督にもデルボアのアイロニーは共有されており、ブラックユーモアに満ちたサタイア(風刺劇)として上手くまとまっている。著名な芸術家がタトゥーを背中に彫っただけで、何の変哲もない男に数千万円の価値が付く。バンクシーの落書きをめぐる騒動に象徴される様な、アート産業の馬鹿々々しさが、ここでは痛烈に批判されている訳だ。それと共に、主人公をアサド政権下のシリア難民と設定する事で、本作はもうひとつの視座を獲得した様に思う。それは、人間にとって自由とは何なのか、という問いである。
確かに、サムは自らを芸術品と化す事で故郷の人々が決して手に入れる事のできない自由と富を手に入れた。劇中、サムがシリアに残された家族とテレビ電話をする場面では、爆撃によって両足を失った母親の姿が映し出される。世界中を旅し、贅沢な暮らしを享受する息子と、もはや自分の足で歩く事すらできなくなった母親の、残酷な対比。もちろんそれは、先進諸国とシリアを始めとする紛争地域とのあまりにも大きい格差を顕わにする。しかし、だからといってサムが母親より自由になったとは言いきれないのだ。ジェフリーとの契約により、サムは要請に応じて世界各地の展示会に出展される義務がある。その時、彼は椅子に座ったままでいる事を強制され、誰かと会話をする事も許されない。サムの背中はもはや彼の所有物ではなく、しかも彼の価値は背中にしかないのである。果たしてそれは、人間としての尊厳や権利を売り渡した、という事なのだろうか?結局、彼は独裁国家による抑圧から逃れた代わりに、資本主義体制下の雇用契約、という縛めに囚われただけなのだ。ならば、企業や個人との契約によって毎日決まった時間に決まった場所へ働きに行く私たちと、サムとの間にいかなる違いも存在しない。本作の哀れな主人公が背中に背負ったものを、実は私たちも背負っている筈だ。

 

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