事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ラナ・ウォシャウスキー『マトリックス レザレクションズ』

虚構と現実が喰い合うウロボロス的世界は誰の為に作られたのか

私は『マトリックス』については1作目だけをレンタルビデオで観て「ふーん」と思って終わり、という感じだったので、このシリーズが映画史に与えたインパクトとその後の影響については認めるとしても、それほど思い入れがある訳ではない。今回、ひさしぶりに続編が公開されるのを機に旧三部作を一気に観たのだが、びっくりするぐらいつまらなかった。特に一応の完結編である『マトリックス レボリューション』の退屈さは想像を絶するもので…一体これは何がしたかったんだ?アクションも単調だし、「現実世界」のビジュアルも暗いだけで魅力に欠けるし、とにかく「説明」する事で「物語」を終わらせたい、という意志しか感じ取れなかったし、それは映画に課すべき役割ではないだろう。
まあそれはいいとして18年ぶりに戻ってきた『マトリックス レザレクションズ』である。待望(?)の続編だが、どうも熱心なファンには評判がよろしくない。期待を裏切られた、完全な蛇足だ云々…しかし、私からすると最初から期待外れに終わる事、蛇足である事はみんな承知しつつ、駄作だ何だと騒ぐ為に映画館に行ったんじゃないのか、と疑ってしまう。例えば『ブレードランナー2049』『エイリアン: コヴェナント』など、そもそも思い付いた奴の頭がどうかしているというか、どうやっても蛇足にしかならない続編の企画というのはどこにでも転がっている。それでもお金を出してくれるのであればどんな仕事でも引き受けるのが映画監督の務めだから、ドゥニ・ヴィルヌーヴリドリー・スコットも内心では「バカじゃねえの」と舌打ちしつつも精一杯の仕事をして、作品を「よくできた蛇足」のレベルにまで引き上げたのだ。
ラナ・ウォシャウスキーも同じである。様々な制約の中で(予算的にかなり厳しかったのではないか、と想像する)ベストを尽くし、でき得る限りオリジナルキャストを集めた正統な続編を作り上げたのだ。『マトリックス レザレクションズ』は『マトリックス』の続編を今になって作るという不毛さを十分に認識しつつ、その不毛さの中から新たな物語を立ち上げようとしている。その粘り強い意志はやはり賞賛すべきだろう。物語への飽くなき欲望が映画を停滞させ、アクション描写と齟齬を来している、という旧作の欠点をそのまま引き継いでいたとしても、だ。基本的にこのシリーズは禅問答じみた会話と奇抜なワイヤーアクションが交互に繰り返されていく構成になっていて、映画のストーリーは会話シーンによってのみ進展していく。つまり、運動ではなく言葉だけが物語を駆動させるのだが、その運動の停滞ぶりを視覚的に表現したのが「バレットタイム」だと言えるだろう。『マトリックス レザレクションズ』が旧作の様々な要素の中でも「バレットタイム」を特に大きくフィーチャーしているのは、これこそがシリーズの本質であるという直感が無意識に働いたからではないか。
それにしても、ラナ・ウォシャウスキーが(セルフパロディというかたちで糊塗していはいるものの)ここまでワーナーブラザースへの侮蔑を隠そうともしないのには驚いた。虚構が現実を飲み込み、現実が虚構を飲み込むウロボロス的構造が本作の特徴だが、その文学的モチーフとなっているのが、『鏡の国のアリス』と『鏡の国のアリス』である事は間違いない。ルイス・キャロルによるこの名作は1人の少女を楽しませる為に即興で作られた物語が原型とされているが、ならば『マトリックス』の物語は誰の為に紡がれたものなのだろうか。それがワーナーの重役連中でない事は確かだが。

 

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この三部作を観た事を前提としたメタフィクション構造が採用されているので、本作だけ鑑賞してもチンプンカンプンだと思います。