事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

トッド・ヘインズ『ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男』

よりよい世界を目指して闘う男が、その世界から疎外されてしまう不条理さ

「ペルフルオロオクタンスルホン酸(PFOS)」及び「ペルフルオロオクタン酸(PFOA)」と呼ばれる有機フッ素化合物は、水や油をはじく、熱に強い、といった性質から、撥水剤や消火剤、コーティング剤など様々な用途で使用されてきた。このPFOSやPFOAは自然環境の中でほとんど分解されない為「フォーエバーケミカル」とも呼ばれている。
アメリカの大企業デュポン社の研究員が偶然に発見したポリテトラフルオロエチレン(PTFE) は耐熱性、撥水性、耐薬品性に優れている事から「テフロン」の名前で商品化され、今や私たちの生活に欠かせないものとなっている。しかし、テフロンを製造する過程で使用されるPFOAは先述した難分解特性により、生物体内で長期的に蓄積されてしまう。これが様々な環境汚染及び健康被害を引き起こしてきた(国際がん研究機関はPFOAを発がん性のおそれがある物質に分類している)。しかし、大手製造メーカーの3M社が世界中の野生生物から高濃度のPFOSが検出された事を明らかにし、同様の科学的構造を持つPFOAについても製造を中止したのが2002年。ストックホルム条約によって国際的に使用が禁止されたのが2019年。PFOAを使用した製品の輸入を禁じた政令が我が国で交付されたのが2021年、それまでの長い間、化学メーカーはこの危険な物質を使い続けていたのだ。本作でも、主人公のロブ・ビロットが恐怖に駆られて家中のフライパンを調べ回るシーンが存在するが、皆さんも一度ご家庭のフライパンが「PFOA FREE」かどうか調べておかれる事をお勧めする。
さて、本作はこのPFOAの有害性を突き止め、ウェストバージニア州の自社工場からこの有害物質を含んだ汚水を排出し続けていたデュポン社を告発した弁護士、ロブ・ビロットの物語である。ロブ役を務めたのは『アベンジャーズ』のハルク役で有名なマーク・ラファロ。環境活動家としても有名な彼は、2016年にニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたロブ・ビロットについての記事に感銘を受け、自ら奔走し映画化に漕ぎつけたらしい。そもそも、このマーク・ラファロはデュポン社と不思議な因縁があり、2014年の『フォックスキャッチャー』ではデュポン財閥の御曹司ジョン・デュポンに射殺されたレスリング選手の役を演じていた。
本作のプロデューサーも兼任するマーク・ラファロが監督として白羽の矢を立てたのがトッド・ヘインズである。これは少々意外な人選だった。何となく、この人はもっとロマンチックな映画を得意としていて、こういった社会派ドラマには興味が無いと思っていたからだ。しかし、公式サイトに寄せられた監督自身のコメントによると、もともと告発ものの映画が好きでアラン・パクラの『コールガール』や『大統領の陰謀』のファンだったらしい。更にトッド・ヘインズは、このジャンルの肝となるのは、企業や国家が隠蔽する不正の内容そのものではなく、それを発見し告発しようとする人々(それは大抵、平凡な市井の人である)が、その過程で受ける精神的、感情的な危機を描く事だ、と述べている。彼らは巨大な資本や国家権力の過ちを糾そうとするが故に、周囲から白眼視され孤立を深めていく。よりよい世界を目指して闘っている筈なのに、逆にその世界から疎外され、時に無力感に打ちひしがれる。『ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男』では、ロブ・ビロットや告発者の1人であるウィルバー・テナントを、まさにそうした危機に直面した人々として描いており、その悲惨な運命に私たちの世界が真に正しい方向へ進む事などあるのだろうか、と暗澹たる気持ちにさせられる。
もちろん、この孤独な闘いがやがて大きなうねりとなり、真相が白日の下に晒され、大企業や国家が自らの過ちを認めたからといって、彼らの危機が一掃される訳ではない。こうした映画は大抵、主人公たちの闘いがまだ続いており、訪れた勝利はその端緒に過ぎない事が最後に示される。いくらエンターテインメントだからといって、私たちの眼の前にある現実を欺き、安易なカタルシスを与える事はできないのだ。ロブ・ビロットはデュポン社への勝利によって英雄になったのではない。誰も手を付けようとしない無謀で地道な闘いをこれからも継続せよと、シシューポスの如き運命を課せられたのだ。
それは余りにも理不尽ではないか、と私たちは憤る。しかし、ロブを襲った過酷な運命は、快適さを求める私たちの飽くなき欲望が生み出したものの筈だ。従って、その理不尽さは結局、人間の存在そのものに突き当たるだろう。本作でマーク・ラファロアン・ハサウェイが体現していたのは、その不条理を自分のものとし、それでも前へ進もうとする不断の努力と覚悟なのである。

 

―かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後、もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬ。(カミュシシューポスの神話』)

 

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