事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

リドリー・スコット『最後の決闘裁判』

真実を「藪の中」から引きずり出せ

83歳になっても相変わらず旺盛な創作意欲を見せるリドリー・スコットの新作は、百年戦争に揺れる14世紀のフランスを舞台に実際に行われた決闘裁判の顛末を描いた、いわゆるコスチューム・プレイものである。当時のフランスでも既に決闘は禁じられていたが、刑事事件においては貴族の男性に限り、相手に決闘裁判を申し込む権利が認められていたという。戦争が長引き、黒死病が猛威をふるっていた当時、神の名の下、真実を賭けて男たちが殺し合う決闘裁判は一世一代の見物でもあったろう。決闘当日の人々の興奮と熱狂は本作の冒頭でも描かれている。
そもそもの発端は1386年、騎士ジャンの妻マルグリットが、夫の旧友ル・グリに強姦されたと法廷に訴え出たところから始まる。当時の法典でも強姦は重罪であり、極刑に値する罪だった。しかし、性犯罪の被害者が法に訴えても、その主張が認められる事が難しいのは昔も今も変わらない。裁判では性行為を強要されたとする原告と合意に基づくものだったとする被告の言い分が真っ向から対立し、真実の行方を決闘裁判に委ねざるを得なくなる。決闘裁判では勝者の主張が真実と認められ、敗者は絞首台へ送られ有罪を宣告される(もちろん、決闘に負けた時点で死んでいる訳だが)。原告が負けた場合は、訴えそのものが虚偽であったと判断され、その罰として妻のマルグリットすら火あぶりの刑に処せられるのだ。
しかしながら、本作はこの決闘の行方にスポットを当てた、いわゆる歴史活劇ではない。もちろん、『グラディエーター』のリドリー・スコットらしい迫力のあるアクション描写は盛り込まれているものの、決闘場面は映画の冒頭と最終盤だけに限られ、大半は先述した強姦事件の顛末が語られていく。その語り口こそが本作最大の特徴で、ジャン(被害者の夫)、ル・グリ(容疑者)、マルグリット(被害者)の順に視点をリレーし、ひとつの事件を語り直していく構成になっているのだ。誰もが指摘する通り、この一風変わった手法は黒澤明の『羅生門』をあからさまに意識したものだが、しかし、本作と『羅生門』では決定的に異なる点がある。
ある殺人事件をめぐって、犯人と被害者夫婦が順繰りに検非違使の前で証言していく『羅生門』の面白さのひとつは、事件の構図が証言によって次々と様変わりしていく点にある。原作となった芥川龍之介の短篇小説「藪の中」は、その意味でアントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』に先んじた「多重解決ミステリー」の嚆矢とも評されているのだが、しかし映画の冒頭で志村喬が「わからねえ、さっぱりわからねえ」と呟いていたとおり、『羅生門』ではミステリーの様に名探偵が登場し絶対的な真実を示してくれる訳ではない。むしろ強調されているのは現実というのものの不確かさなのだ。事件を語る人々が何を暴き、何を隠したか。それぞれの証言は人が心に隠し持つ愛憎や欲望を反映し、それを受けて現実は可塑的に変化していく。「藪の中」のプロットをなぞりながら、映画『羅生門』は芥川龍之介の同題小説が描いた人間のエゴイズムというテーマに辿り着くのである。
翻って、『最後の決闘裁判』はどうだろうか。確かに、本作も『羅生門』と同じ三幕構成を有し、それぞれに「ジャン・ド・カルージュの真実」「ジャック・ル・グリの真実」「マルグリット・ド・カルージュの真実」という標題が付されてもいる。「ジャン・ド・カルージュの真実」と「ジャック・ル・グリの真実」では、古くからの友人であるジャンとル・グリが互いをどう思っていたのかが併記され、またマルグリットに対するそれぞれの心情も描かれ、その食い違いが『羅生門』的なテーマを想起させもするのだが、しかし、三幕の最後を飾る「マルグリット・ド・カルージュの真実」の標題のすぐ後に「真実」という言葉が浮き上がる事からも分かるとおり、ひとつの事象を三つの立場から繰り返し語る事で事実を相対化し、真相を「藪の中」へと追いやる『羅生門』に対して、『最後の決闘裁判』はあくまでマルグリットの視点から語られる物語こそが唯一絶対の真実であると主張するのだ。
ジャンにとってこの決闘は、自らの「資産」である妻が他人に奪われた事への報復であり、騎士としての誇りを取り戻す闘いであった。逆にル・グリにとっては事件がマルグリットが主張する様な強姦などではなく、あくまで「不幸な恋愛」に過ぎなかった事を証明する手段である。原告と被告、立場は異なれどここに共通しているのは性的暴行を受けたマルグリット当人の視点が完全に欠けている事だ。この一方的な態度は『羅生門』の金沢武弘と多襄丸にも共有されていたが、多襄丸に犯された真砂の中に悪女的な加害者性を見出した『羅生門』と異なり、『最後の決闘裁判』はあくまでマルグリットの被害者性を際立たせる。彼女が直面したのは、女が男に所有され、子供を生むという役割を一方的に押し付けられ、己自身の意思と才覚で生きていく可能性を奪われていた時代に、全ての女たちが見舞われた筈の悲劇なのだ。
要するに、本作は14世紀の史実を#MeToo以降にハリウッドが獲得した価値観によって解釈したものであり、当時を生きた人々の思想や価値観を忠実に再現した訳ではない(もちろん、そんな事は不可能な話だが)。例えば、当時は今よりも信仰心が強かっただろうから、実際のマルグリットは決闘裁判がもたらした結果を神の思し召しとして素直に受け入れていたかもしれない。だから、本作は史劇というよりもあくまで現代を生きる私たちに向けられたアクチュアルな一作として、例えば『プロミシング・ヤング・ウーマン』などと同列に扱われるべき映画である。ラストシーンで見せるマルグリットの虚ろな眼差しは、現代を生きる女性たちの絶望を向けられている、というのは考え過ぎだろうか。

 

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フェミニズムという観点からハリウッド映画史を概観する時、リドリー・スコットとい監督は案外重要な位置を占めるのではないだろうか。『テルマ&ルイーズ』はシスターフッド映画の嚆矢とも言える作品だが、例えば『エイリアン』を「妊娠」と「出産」という役割から女性を解放した映画として観る事も可能だろう。