事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ライアン・ホワイト『わたしは金正男(キム・ジョンナム)を殺してない』

北朝鮮の現最高指導者、金正恩キム・ジョンウン)の異母兄である金正男キム・ジョンナム)は、生前も偽造パスポートで来日して逮捕されたり何かと世間を騒がせていたから、2017年にマレーシアの空港で殺された、というニュースを聞いた時はびっくりした。しかも、VXガスを用いた女性工作員による暗殺というのだからほとんどスパイ映画の世界だなあ、という感想を抱いたのを覚えている。で、その後は事件の事もすっかり忘れてしまっていて、というのも北朝鮮の偉いさんが死んだのどうだのという話は自分の生活と何の関係もないからだが…本作で事件の背後に隠された真実を知り、引っ繰り返りそうになった。この事件の実行犯はプロの工作員でも何でもない。私と同じく、北朝鮮の権力争いなど自分とは全く関係ないと思って生きていた女性2人が、国家をまたぐ陰謀に利用されていたのだ。
ドッキリとかイタズラというのは昔も今も変わらず人気がある様で、TVや動画共有サイトはその手の企画で溢れ返っているが、これは日本だけに限った話ではないらしい。作中でも言及されている様に、2000年からアメリカで放映されていた『ジャッカス』の影響もあるのだろう。しかし、本作で明らかにされた北朝鮮の暗殺計画は『ジャッカス』どころの騒ぎではない。いや、実際に人が死んでんだからそりゃそうなのだが、非常に不謹慎な言い方をすると、この計画を思い付いた人間はとんでもないユーモアセンスの持ち主である。ドキュメンタリー作品である事を考慮し、若干ネタバレ気味だがこの暗殺計画の概要を記してみよう。
まず、嘘のイタズラ動画企画をデッチ上げ、その仕掛け人をやってみないか、と2人の女性に出演話を持ち掛ける。女性たちにこの企画が本当であると思いこませる為、それぞれ別の場所で通り掛かりの人の顔にボディクリームを塗りたくる、というイタズラ撮影を行ってギャラを支払う。そして事件が起きた017年2月13日午前9時、最後までイタズラ動画の撮影と思い込んでいた女性たちは、クアラルンプール国際空港のロビーにやってきた金正男に同じイタズラを仕掛けるのだ。自らの手に塗られたのが猛毒の神経剤、VXガスであるとも知らずに…
なるほど、これは国家権力が何の罪も無い個人に向けて仕組んだ卑劣な犯罪であり、到底許されるべきものではない。だが、この計画を成功させてしまった原因は、この手のイタズラを面白がり、困っている人を見ては腹を抱えて笑う、私たちのメンタリティにあるのではないか?この暗殺事件は、他人に対する嫌がらせすら商品になってしまう資本主義社会に対する、北朝鮮側からの痛烈な皮肉の様に思えるのだ。
犯人に仕立て上げられた女優志望のベトナム人女性ドアンが「以前は世界が輝いて見えたけど、今では全く違って見える」と述懐したのは、人々が心の中に隠し持っている密やかな悪意が、世界を黒々と覆い尽くしている姿を目撃してしまったからだろう。ある日、その毒牙が自分に向けられるかも知れないのに、人々は気づかぬふりをして他人を嘲笑う。
さて、国家間の陰謀に巻き込まれた2人のアジア人女性、シティ・アイシャとドアン・ティ・フォンがいかなる運命を辿るのか、それはぜひ映画館でお確かめ頂きたい。本作は2人がマレーシア警察に逮捕され、公判が始まったばかりの時期、つまり事件がどの様な決着を見せるか、全く未知数の段階から撮影を開始している。ドキュメンタリー作品でありながら、冤罪サスペンス的な緊張感を漂わせているのは、作り手自身が先の読めない状況でカメラを回していたからだろう。実際のところ、公判の最後には予想だにしなかった運命が2人を待ち受けているが、その後味は苦い。

 

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 こちらは実際の冤罪事件をもとにしたロバート・ワイズ監督によるサスペンス映画。主演のスーザン・ヘイワードは本作でアカデミー主演女優賞を受賞した。