事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ディアオ・イーナン『鵞鳥湖の夜』

最近、日本のお笑い界では第七世代と呼ばれる若手芸人たちが非常に人気らしいが、中国映画界においても第七世代とも言うべき監督たちが登場し、国際的にも大きな注目を集めている様だ。ここで、中国映画界の歴史について簡単に解説する…とかっこいいのだが、私にはそんな知識も能力も無いので、第五世代がチェン・カイコーチャン・イーモウで、第六世代がジャ・ジャンクーロウ・イエらしいよ、とWikipediaで得た情報をそのまま書いてごまかしておく。
もちろん、第五世代も第六世代もまだ現役で映画を作っている訳だが、さらに下の世代、『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』のビー・ガンや本作を手掛けたディアオ・イーナンなどが、現代中国映画の新しい潮流、という事になるのだろう。というか、実はこの2人ぐらいしか知らないんですが…にもかかわらず、強引に両者の映画の共通点を挙げるとすれば、すごくかっこいいお洒落な映画を作る、という事であろう。ここまで馬鹿が書いた文章です。
で、馬鹿なりに世代毎に中国映画の変遷、という事を考えてみると、第五世代はどちらかといえばハリウッド的な娯楽大作、要するに中国っぽくない映画作りを指向し、そうした流れの中で伝統的な武侠映画をハリウッド流にブラッシュアップした『グリーン・デスティニー』や『HERO』といった作品が国際的な成功を収めた訳だ。現在のハリウッド映画では中国資本が欠かせないものとなっているが、それもこの第五世代による中国映画とハリウッド映画の接近が準備したものだと言える。それに対し、第六世代はむしろ中国社会の暗部や都市生活の歪みにスポットを当てた、リアリスティックなタッチの低予算映画からスタートし、国際映画祭への出展などを通じて評価を得てきた、という印象がある。作風的にも、フランスのヌーヴェルヴァーグやイタリアのネオレアリズモからの影響が大きく、急速に商業主義化していく中国映画へのカウンターとして機能していた側面もあるだろう。
ビー・ガンやディアオ・イーナンも基本的には中国の地方都市を舞台にした映画を撮り続けており、その意味では第六世代の意志を受け継いでいるとも言えるのだが、彼らの作風はヨーロッパ映画というよりハリウッド映画に極めて近い。といっても第五世代の娯楽映画志向とも異なり、ハリウッド・クラシックの骨格を巧みに利用する事で、アメリカとも中国とも異なるボーダレスな映画空間を作り上げているのが特徴だ。それは、夜の街に極彩色のネオンサインが煌めき、原色のドレスを身にまとった女たちが不意に現れては消える、極めてフィクショナルな世界である。この辺りは、香港映画界の巨匠であるウォン・カーウァイからの影響が大きいのだろう。ウォン・カーウァイは、ジャッキー・チェンに代表される香港アクション映画がハリウッドに接近し非アジア化ていくのに対して、逆に香港社会のキッチュで猥雑な様相をスタイリッシュに描いた事で世界に衝撃を与えた。ウォン・カーウァイが香港のアジア性を漂白するのではなく、むしろ強調する事で異化させたのと同じ戦略が中国第七世代の監督たちにも共有されている。
雨の降り続ける夜、高架下で息を殺しながら誰かを待ち続けている男に、赤い服を着た女がゆっくりと近づき、お兄さん、火を貸して、と話しかける。『鵞鳥湖の夜』におけるこの冒頭場面が私たちを驚かせるのはそれにしてもなぜなのだろう。前作『薄氷の殺人』に続いての出演となるグイ・ルンメイの蠱惑的な美しさからだろうか。それとも、煙草の火を借りるのをきっかけに男と女が出会うという、あまりにも反時代的なエピソードからぬけぬけと映画を始める、ディアオ・イーナンの大胆さゆえだろうか。いや、それはむしろ、この場面の舞台となる駅の高架下という場所の異質性に由来するのではないか。闇に溶け込んで巨大な影そのものとしてそびえ立つその高架は、駅からの光によって雨に濡れたコンクリートの表面を時々浮かび上がらせながら、その下で雨を避ける男女を圧倒的な存在感で圧し潰そうとしているかに見える。この様な建造物、この様な光景がこれまで映画の中に登場した事があっただろうか、いや、あったのかも知れない。しかし、ディアオ・イーナンが武漢で撮影した『鵞鳥湖の夜』が、こうした未知の感覚を私たちにもたらしている事だけは断言できる。
この冒頭場面を起点に、映画はフラッシュバックを繰り返し、過去と現在を往復する事になるのだが、こうした構成は作品の迷宮性を強調するというより、いささか説明の為の説明に堕してしまった感が否めない。なぜなら、犯罪映画としての構造を最後まで保持する本作においては、過去が現在と律義に照応し、各ショットのはらんでいる曖昧さを打ち消してしまっている様に思えるからだ。
むしろ、本作の迷宮性は恣意的な時間の操作よりも、空間の連続性によってもたらされている様だ。冒頭場面においても、その流麗なカメラワークが甘美な快楽を観客にもたらしてくれはするのだが、映画が進むに従ってカメラは異質の空間を大胆に繋ぎ合わせ、あらゆる場所が隣接し、接続されたかの様な錯覚に陥らせる。けばけばしいネオンに飾られたホテルの地下室では、全身に刺青を彫ったバイク窃盗団の男たちが腰を下ろし、持ち込まれたバイクのエンジン音が唐突に轟きわたる。あるいは、男に追われる女が入り組んだ寂れた街路を抜け、とある町工場の中に入ると、そこでは大勢の住人たちが集会を開き、いきなりくじ引きを始めたりもする。観客の追っていたストーリーラインとかけ離れた、場違いとしか思えないショットが、パンやティルトといった単純なカメラの動きによって易々とと繋ぎ合わされていく。クライマックスの集合団地でのシーンは、室内と室外、上階と下階が複雑に繋がる映画的空間の中で多数の人物の錯綜した動きが展開され、アクション映画としても一級品の出来だが、無媒介的にあらゆる空間を繋ぎ合わせるカメラが、舞台装置に夢幻的な抽象性を与えている。
しかも、観客を幻惑させるこれらのショットは、例外なく暴力の予感に充ちているのだ。ふとした瞬間に憎悪が暴発し、連続した空間の中で大量の弾丸や血飛沫が飛び交う。そう、本作は徹頭徹尾、暴力映画たらんとしているのであり、バイクに乗って疾駆する男の首が飛び、ビニール傘が男のどてっ腹に突き刺さるといった、馬鹿々々しいシーンを不意に挟んで笑わせてくれたりもするのだが、その果てに辿り着くラストシーンでは、こうした男たちの暴力を飾り立てるだけの存在と思えた女たちが、突如として男たちの手から物語を奪い、悠然と歩み去っていく姿が描かれる。その歩みを後ろから追いかける刑事の姿が、『薄氷の殺人』のラストシーンと呼応している事は言うまでもないだろう。

 

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ディアオ・イーナンによる前作。こちらはどちらといえば、ノワールではなく謎解きサスペンスに近い。何となく今作と繋がっている様なところもあるので、ぜひご覧頂きたい。