事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

大林宣彦『海辺の映画館―キネマの玉手箱』

大林宣彦の『海辺の映画館―キネマの玉手箱』について、何を語ればいいのだろうか…正直、全否定したい気持ちもあるのだが、ここまでやれば大したものだ、という気がしないでもない。
まず、映画が始まる前にヒントン・バトルとかいう知らんオッサンへの応援メッセージが流れる。トニー賞に3度輝き日本でもダンス教室を開設するぐらい著名なダンサーを知らないのは完全に私の不勉強だが、じゃあこのヒントン氏が本作に参加しているのかといえば、全く関わっていない。どうやら大林監督は映画に参加(おそらくはミュージカルパートの振り付けなど)して貰いたかったのだが、ヒントン氏の急病によって叶わなかった、という事の様だ。言っておくが、だからといって病死した故人に映画を捧げている訳でも決してない。ヒントン氏の病は映画が完成する頃にはすっかり回復し、今では元気にやっているらしい。つまり、開幕前に唐突に流れて観客を戸惑わせるこのメッセージは、大林監督が友人へ送った、本当に単なる応援なのである。そんなの、LINEとかでやればいいんじゃないの?と思わなくもないが、どの様な形であっても、ヒントン氏を映画に登場させようとする、大林監督の執念すら感じるではないか。
そう、この執念、オブセッションこそが大林映画の原動力である事は言うまでもない。思えばデビュー作『HOUSE』においても、そのポップでカラフルな見た目とは裏腹に、肉体が滅んだとしても心の中に生き続ける想い、決して消え去る事のない愛の物語が描かれていた(それがラストにナレーションではっきりと説明されるのが大林映画らしい)。CM畑出身である大林宣彦の商業映画デビュー作『HOUSE』は、それまでの映画界の常識を無視した作りが毀誉褒貶を生んだが、今観てもやはりトンデもない作品である。実写との整合性をまるっきり無視した画面合成、ほとんど描き割りにしか見えない風景、噛み合わない役者たちの演技、コメディとホラーの要素が全く溶け合っていないストーリー、とにかく映画を構成する全ての要素がバラバラで、ひとつの作品として全く統一されていない。それは「おもちゃ箱をひっくり返した」様な作風と形容する事もできるだろうが、だからといって誰もが気軽に楽しめるエンターテインメント映画になっている訳でもない。戦争で夫を亡くした女の情念が家に取りつき人々を喰らうというお約束的な設定から、反戦というテーマがどんどん膨れ上がり、物語はそのまま陰惨なラストへ終着していく。おそらく、焼け跡世代である監督自身にとって、戦争とは物語のつまとして容易に扱う事のできないものだったのだろう。それは、ジャンル映画としての構造を歪めてでも語られねばならないものだった。だから、大林宣彦は主題と手法のあからさまな分裂を抱えたまま映画作家としてのキャリアをスタートさせたと言える。
しかし、1982年の『転校生』、1983年の『時をかける少女』、1985年の『さびしんぼう』という「尾道三部作」を契機にこの分裂は徐々に解消されていく。相変わらず人を喰った奇抜な特撮や突飛な演出が時々挟み込まれるものの、この三部作では落ち着いた演技と情緒豊かな映像が映画の大部分を支配し、ウェルメイドな青春映画として不足のない仕上がりである。これは、やはり尾道というトポスを発見した事が大きいのだろう。坂道が多く、狭い道の入り組む尾道の風景は、必然的に画面に奥行きをもたらす。実際、フィルムに絵の具をぶちまけた様な『HOUSE』のカラフルな映像が極めて平板であったのに対し、この三部作では空間の広がりを意識させるショットが多用されている。『HOUSE』の実験性から後退し、いわゆる「普通の映画」に近づいたとも言えるが、いずれにせよこの「尾道三部作」の成功によって角川映画大林宣彦は80年代の日本映画界を大きくけん引していく事になった。
その後、日本を代表する映画監督としてキャリアを積み重ね、作家として成熟していったかに見えた大林宣彦が、また『HOUSE』当時の初期衝動を取り戻し私たちを驚かせたのが、2012年の『この空の花 ―長岡花火物語』から始まる「戦争三部作」である。それまでも実験的な映像を好んで採用していた大林が、初めて全編デジタル撮影に挑んたこの三部作では、「尾道三部作」で獲得した奥行きのある映像空間が廃棄され、実写とCGが見分けが(つかない、ではなく)つき過ぎるほどに主張しあいながら強引に同居する、未知の空間を誕生させていた。ハリウッドに代表される現代映画が、CGやVFXに「本物らしさ」を求めているのに対し、大林のそれは全く逆で、むしろ観客の違和感をかき立て、映画の虚構性を強調するのだ。そして、「本物らしさ」からは遠く隔たった極めてフィクショナルな空間の中で俳優たちは過剰としか思えない演技を繰り返し、更にカットバックを多用する編集によって、映画は紙芝居に限りなく近づいていく(もともと、大林が好んで使う横方向へのワイプが更に紙芝居性を引き立てる)。ここでは、「普通の映画」としての恰好など完全に無視され、とにかく大林監督が語りたい、伝えたいメッセージが性急に物語られていく。そのスピードに、私たちのイメージする「普通の映画」はおそらく追いつく事ができないのだ。
「戦争三部作」を終わらせた大林宣彦の最新作―図らずも遺作となってしまったのが本作『海辺の映画館―キネマの玉手箱』である。当初は尾道を舞台とした気軽なエンターテインメント作品として構想されたそうだが、結果的には自伝的要素をふんだんに盛り込み、また映画に対する愛情や知識が総動員された3時間の大作となった。しかし、十数年ぶりに尾道を舞台にしているとはいえ、本作にノスタルジーの要素は皆無である。本来、ノスタルジーは現在と過去との断絶が前提とされねばならない。しかし、この映画では現在と過去、現実と虚構、宇宙と地上がシームレスに繋がっている。ここで描かれる尾道は過去の大林映画で私たちが知った尾道ではもはやない。だらだらと続く坂道や旧家が立ち並ぶ狭い道が、画面に豊かな奥行きをもたらす瞬間は最後まで訪れず、全てはフラットに並置されているのである。燃え上がる少女のイメージや、船に乗って島からやって来る少女の姿など、「尾道三部作」のモチーフが挿入されるものの、それらは本作の圧倒的な情報量の中でただ埋没していくばかりなのだ。
過去の作品と比べても、本作の情報量は異常である。戦争アクションや時代劇、ミュージカルなど様々なジャンルの映画が引用され、現実と虚構の人物が入り乱れ、ほとんどの台詞にタイポグラフィ的な字幕が付され、文学作品の引用やナレーションが挿入される。観客は次々と提示される言葉と映像の奔流に引きずり回されながら、大林宣彦の脳が生み出した「大林宇宙」とでも言うべき空間に引きずり込まれていく。大林映画はもともと非常に饒舌な作品が多いのだが(個人的にその饒舌さがエンターテインメントして最も上手く昇華されたのが、宮部みゆきのミステリー小説を映画化した『理由』だと思う)、本作ではその饒舌さをほぼ自分語りに費やしていると言えるだろう。だから、映画館を訪れた観客は本作に「普通の映画」を期待してはいけない。むしろ、居酒屋で隣に座ったオッサンが突然、ものすごい早口で身の上話を始めたので何となく耳を傾けていたら、それがめちゃくちゃ面白かった、みたいな態度で本作に接すればよろしい。ただ、オッサンが異常にハイテンションなので、そのノリについていけない、という人も多いかもしれない。

 

あわせて観るならこの作品

 

HOUSE ハウス[東宝DVD名作セレクション]

HOUSE ハウス[東宝DVD名作セレクション]

  • 発売日: 2015/02/18
  • メディア: DVD
 

文中でも取り上げた、大林宣彦の商業映画デビュー作。とにかく異常にテンションが高い映画なのだが、まさかそれが遺作まで持続されるとは思わなかった。 当時18歳の池上季実子のヌードが拝める、ありがたい1作。

 

時をかける少女 4K Scanning Blu-ray

時をかける少女 4K Scanning Blu-ray

  • 発売日: 2014/12/05
  • メディア: Blu-ray
 

尾道三部作のひとつであり、公開当時、多くの人々を熱狂させた原田知世のデビュー作。筒井康隆の原作をもとに、比較的ウェルメイドな作りにはなっているが、時折すっとんきょうな演出が挟み込まれるのがいかにも大林映画、といった感じ。