事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

フランソワ・オゾン『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』

ローマ・カトリック教会の神父、ベルナール・プレナが1971年から91年にかけて、80人以上の少年に性暴力を働いたとされる事件は、人口の70%がカトリックであるフランス全土を震撼させた。この事件は現在も係争中ではあるがが、その捜査や裁判の過程で暴露されたのは、カトリック教会の悪質な隠ぺい体質である。映画にも登場するバルバラ枢機卿は、事件を知ってからもなお、警察に通報しなかったばかりか、プレナ神父の聖職もはく奪しなかった。カトリック教会によるこの日和見主義的な態度は非常に根深い。これまでも神父による児童虐待の事例が数多く報告されていたにもかかわらず、問題行動を起こした神父をほとぼりが冷めるまで別の教区へ移動させるぐらいの処置しか行わず、決して事件を公にはしてこなかったからだ。人々を苦しみから救う筈の聖職者の手によって、被害者の声は握りつぶされてきたのである(未成年者に対する性的虐待は、被害者が二次被害を恐れて沈黙するケースが多く泣き寝入りせざるを得なかった、という事情もある様だ)。こうした問題は、アカデミー作品賞を受賞したハリウッド映画『スポットライト 世紀のスクープ』でも詳しく描かれていた。この映画の中でボストン・グローブ紙がすっぱ抜いたボストン大司教区での児童に対する性的虐待事件は世界中で大きな反響を呼び、カトリック神父による児童虐待の事例が次々と明るみになっていく。プレナ事件もその余波を受けて明らかになった事例のひとつだった。
スポットライト 世紀のスクープ』は、ボストン・グローブ紙の記者たちを主人公に据えた、言わば『大統領の陰謀』の様なジャーナリズム映画だった。それに対し、本作『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』はプレナ神父から性的虐待を受けた3人の被害者、アレクサンドル、フランソワ、エマニュエルに焦点を当てた作りになっている。彼らは、社会的地位も家庭環境も異なりながら、それぞれが心にトラウマを抱えており、聖職者による非道な振る舞いがその後の人生に与えた影響の大きさが窺い知れる。物語は、アレクサンドル、フランソワ、エマニュエルの順で視点をリレーしながら、最終的に3人が邂逅し被害者団体を設立して神父と教会を告発するまでを描いていく。こうした構成にしたのは、たった一人の行動が連鎖反応的に広がり、やがて大きなうねりとなって社会を動かしていく様を表現したかったからだ、と監督のフランソワ・オゾンは語っている。
どちらかと言えば多作の部類に入るフランソワ・オゾンの作品を、私はそれほど熱心に観ている訳ではないが、人を喰った奇抜な設定とひねりの効いた展開、何となくフランスっぽいお洒落な映像(アホみたいな表現だが…)を特徴とする作家、というイメージがある。ただ、今回はテーマの重さに合わせたのだろう、そのらしさをできるだけ封印して堅実というか地味な作りに徹している様だ。何しろ、現実に起こった、しかも現在も係争中の事件である。あんまり奔放な脚色もできない訳で、アレクサンドルの章のほとんどが手紙やメールのやり取りで進行していくのも、なるべく事実から離れたくない、という思惑があったのかも知れない。まあ、そのせいで全体を通して盛り上がりの少ない、平板な印象が否めなくなっている訳だが…
ところで、プレナ神父による児童虐待の事実を知りながら、バルバラ枢機卿がその解決に消極的だった理由を、本作ではキリスト教の教えの中心を為す「赦し」に求めている様だ。ここで、新約聖書の中からマタイ伝の一説を引用してみよう。

 

その時、ペトロがイエスのところに来て言った。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回まででしょうか。」
エスは言われた。
「7回どころか7の70倍までも赦しなさい。」(マタイ伝18章21‐22節)

 

つまり、人間は神によってその罪を赦されているのだから、私たちもまた罪人を赦すべきである、というのがキリストの教えの神髄なのである。アレクサンドルの訴えによって、プレナ神父との面談が実現し、その場で神父は過去の罪を率直に認め、反省したそぶりを見せる。しかし、教会はプレナ神父の聖職はく奪といった根本的な解決にまで踏み込まない。バルバラ枢機卿が問題視したのは、プレナ神父の行いそのものより、神父が面談の際にアレクサンドルに赦しを請わなかった点にある様だ。逆に言えば、この時にプレナ神父が赦しを請い、アレクサンドルがそれを受け入れていれば、問題は解決すると考えていた節がある。これは、カトリック信者であるアレクサンドルは、必ず教義に従って神父を許す筈であり、それによって加害者にも被害者にも等しく心の平安がもたらされる、という、キリスト教徒以外には通用しないハイコンテクストなコミュニケーションが前提とされている。これこそが、カトリック教会が神父の不祥事が明るみに出るのを長年にわたって抑え込んできた秘儀(?)に他ならないのであり、今まで教会はキリストの教えを利用し被害者たちに沈黙を強いてきたのではないか、とフランソワ・オゾンは批判している訳だ。
この批判は非常に的を射たものであり、こうしたご都合主義的な姿勢が、西洋社会の人々の宗教離れに拍車を掛ける要因になっているのかもしれない。この映画で事態の解決に最も尽力したのが、無神論者であるジャーナリスト、フランソワであった事は象徴的である。いずれにせよ、被害者たちの勇気ある告発によって、カトリック教会の社会における在り方が問われる状況になっているのは間違いないだろう。

 

あわせて観るならこの作品

 

スポットライト 世紀のスクープ[Blu-ray]
 

ボストン大司教区で長年にわたって隠されてきた、カトリック神父による児童への性的虐待を暴露した記者たちの姿を描くアカデミー作品賞受賞作。監督は、俳優としても活躍するトム・マッカーシー。