事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

ルパート・グルード『ジュディ 虹の彼方に』

演劇畑のルパート・グルードが監督した『ジュディ 虹の彼方に』は、正確な意味での伝記映画ではない。ジュディ・ガーランドについて何の知識もない人が、かつての大スターの生涯について詳しく知りたいと思って本作を観に行ったとしても、期待を裏切られるだけだろう。何しろ、この映画では『オズの魔法使い』でデビューを果たした頃の10代のジュディと、死の数か月前にロンドンでの連続公演に臨んでいた40代のジュディしか登場しないのである。
本作が戯曲の映画化作品である、という事を理解していないと、ジュディ・ガーランドのキャリアの最初と最後の部分だけを描いて、途中を全部すっ飛ばした本作の構成に戸惑うに違いない。『若草の頃』や『イースター・パレード』はもちろん、『スタア誕生』に主演した際のエピソードも描かれず、グラミーの最優秀歌唱賞を受賞するきっかけとなった1961年のカーネギーホールでのライブも省かれている。ジュディ・ガーランドについて何も知らない人が観たら、子役時代に『オズの魔法使い』のドロシー役で当てただけの人だと勘違いするんじゃないだろうか。
要するに、身も心もボロボロになっていたかつての大スターが、死の直前のステージでかつての輝きを取り戻す、という物語を描く為に、本作のジュディ・ガーランドは召喚されているのだ。『オズの魔法使い』でデビューした頃のエピソードに絞ったのも、彼女の精神を追い詰めた直接的なトラウマとして強調する為に思える。映画の冒頭には、少女時代のジュディがレッスンを受ける姿が描かれるが、『オズの魔法使い』のテーマ曲である「オーバー・ザ・レインボー/虹の彼方に」を歌いだそうとした瞬間に映像がタイトルバックに切り替わり中断されてしまう。30年後、ロンドン公演のステージで彼女は再びこの代表曲を歌い始めるのだが、歌の途中で泣き崩れてしまい最後まで歌いきる事ができない。この2度の中断が示しているのは、過去と現在の間に横たわる断絶である。『オズの魔法使い』のドロシーは、虹の彼方へ辿り着けることを信じる事ができた。しかし、ジュディにとって今やその歌はまるで意味を変えてしまっている。夢と希望に満ちていた過去は既に虹の彼方へと遠く過ぎ去り、いくらもがこうともはや辿り着く事はできないのだ。
と、まあそんな話なのだが、ちょっと勝手過ぎるんじゃないの、というのが正直な感想である。確かに、ジュディ・ガーランドは『オズの魔法使い』やそのテーマ曲に対してアンビバレントな想いを抱いていたかもしれない。けれど、こんな風にトラウマの源泉みたいな描き方をされては、作品もジュディ自身も浮かばれない。あの映画の中でドロシーの歌う場面に皆が感動したのは(もちろん様々な抑圧に苦しめられながらではあるが)、ジュディ自身の歌う喜びや演じる喜びが溢れ出していたからだろう。もちろん、ハリウッドが彼女にした非人間的な振る舞いは許されるべきものではない。それでも、ジュディが失ったものを強調したいばかりに、得た筈のものを描かないのは結局、お仕着せの物語に彼女を押し込めているだけなのではないか。生前のジュディに残酷な仕打ちを続けたハリウッドが、「伝記映画」として、この様な作品を公開した事に二重の罪深さを感じてしまう。
ステージに突っ伏したジュディの代わりに、観客たちが「オーバー・ザ・レインボー/虹の彼方に」を歌い始めるラストシーンは、確かに感動的である。この時、彼女は永遠に失われたと思い込んでいた過去が、観客たちの心の中にしっかりと息づいている事を実感し、救いを見出す。私はこの場面で涙を流しながら、それでもこの歌は最後までジュディ自身が歌うべきだ、と思った。それは彼女だけが歌える、彼女の為だけに存在する歌なのだから。

 

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