事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

片瀬須直『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』

こうの史代の原作を絵、ストーリーにとどまらず、その空気感までをもほぼ完璧に再現し、高い評価を受けた映画版『この世界の片隅に』だが、私は原作は読んでいたもののそちらの方は未見であった為、この改訂版の公開を楽しみにしていた。今回の記事を書くにあたり、遅ればせながら前作を観賞したところ、本作では遊女リンさんの挿話を中心に約30分のシーンが追加されている。『この世界の片隅に』の素晴らしさについては既に多くの人が語っているので、私は最新版に追加された要素を中心に感想を書いてみたい(以下、映画版『この世界の片隅に』を通常版、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を最新版と呼ぶ)。

広島から呉に嫁いできた主人公すずと、呉の遊郭で働くリンさんとの出会いは『この世界の片隅に』という作品において重要な意味を持っていたが、通常版では上映時間等の都合もあったのか、そのあたりのエピソードがかなり省略されていた。その為、作中でのリンさんの扱いがいささか中途半端なまま終わっていた感がある。製作陣も忸怩たるものがあったのだろう、最新版では原作に沿った形でかなりの量のエピソードが追加され、作品世界の奥行きが更に増している。

それでは、すずとリンさんの挿話は物語上どの様な役割を果たしていたのか。ひとつは、夫である周作とリンさんの過去を知ってしまった事により、すずの心に疑いと嫉妬が芽生える過程を描く事で、物語に豊かな情緒性をもたらしていた点である。通常版では、この描写がすっぽり抜け落ちていた為、すずと周作夫婦の関係性がいささか幼く見えていた事は否定できない。最新版のアップデートによって、初めてすずは一人の女として成熟し、懊悩する事となった。本作の恋愛映画としての側面を補強するかの様に、すずの初恋(?)の人、水原との幼少時のエピソードがより細やかに描かれている事も見逃せない。

遊郭という性的搾取の場を描く事により、戦時下において、女たちがいかなる犠牲を強いられていたかを原作では明確に示していた。それは(従軍慰安婦に象徴される様な)戦地に限った話ではなかったのだし、男が働き女が家を守る、という旧弊な価値観が未だ生き残っている事を考慮すれば、現在にまで射程を伸ばす問題でもある。しかし、その様な状況下でもすずとリンさんは対照的な存在として描かれている。

ふとした事から妊娠したと思い込んだすずは、それが勘違いである事を医者に指摘され意気消沈する。しかし、その話を聞いたリンさんはすずの落胆ぶりに全く共感できない。彼女は子供を産む事のデメリットを滔々と並べ立て、すずを白けさせてしまうのだ。これは、結婚して跡取りを生む事こそ女の役割だと教え込まれたすずと、逆に子供を産んでしまえば遊女としての価値を失ってしまうリンさんの立場の違いから生まれた齟齬であろう。子供を産む事で女としてのアイデンティティが保証されるすずと、子供を産んだ瞬間に女としてのアイデンティティを喪失するリンさん。二人は共に搾取される立場でありながら、全く逆の価値観に支配されているのだ。この様な巧みな描き分けが、フェミニズム的観点においても本作に厚みをもたらしている。最新版は、原作にあったアクチュアルな問題意識を共有する事に成功したと言えるだろう。

最後に、これは映画版に限った事ではないが、『この世界の片隅に』は決してリアリティ一辺倒の作品ではない、という事を指摘しておきたい。戦時下の市井の人々の暮らしに対する綿密な取材に基づいた真摯な眼差しと、細緻なディテール描写がこの作品の魅力である事は間違いないが、すずと周作の出会いの場面や、すずとリンさんの出会いの場面など、主に幼少時のエピソードにおいて本作には民話的な要素が少なからず取り入れられ、不可思議な空気感を醸し出している。重要なのは、こうしたファンタジックな場面が、すずが作中で描いた絵として提示されている事だ。本作には、突然タッチが手描き風になったり、それを描いている手そのものが登場したりと、メタフィクション的な技法が多く取り入れられている。時限爆弾によってすずが右手を失った後は、作品全体がまるで左手で描かれた様に歪んだ描線になる、といった凝り具合である。こうした手法が、『この世界の片隅に』という作品の虚構性をより強調する役割を果たしているのだが、ここには原作者こうの史代の覚悟が示されていると捉えるべきだろう。

同じく広島の戦禍をテーマにした『夕凪の街 桜の国』のあとがきで、こうのは当初、戦争体験者でもない自分が「ヒロシマ」の物語を描く事に葛藤があった、と告白している。そして、「まんがを描く手」が「勇気を与えてくれ」た、とも。彼女は、「はだしのゲン」の中沢啓治や「火垂るの墓」の野坂昭如の様に、戦争を自分の体験として語る事はできない。しかし、虚構として、作りものとして語る事は可能である。たとえ現実そのものではなくとも、生み出された虚構は誰かの心を動かす力を持っている。すずが描いたスイカや南の島の絵が、リンさんや病に伏せる遊女の心を慰めた様に。戦後から75年が経とうとしている現在、戦争体験者は日に日に少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている。残された私たちに出来るのは、「現実」と共にこうした「虚構」をも後世に語り継いでいく事なのかも知れない。

 

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通常版と最新版、そして原作の全てに触れて頂きたい。再見、再読に耐え得る作品である事は保証します。