マッテオ・ガローネ『ドッグマン』
主人公のおっさんがエスパー伊藤にすごく似てるなあ!というのが第一印象。馬鹿々々しい事を真剣にやる、好きな芸人だったのに…病気に負けず頑張ってほしい。映画と関係ないけど…
で、その気の弱そうなおっさん、マルチェロは寂れた海辺の町で犬のトリミングサロンを営んでいるが、昔からの悪友シモーネに強盗の手伝いや麻薬の手配などを無理強いされ、下働きの様にこき使われている。マルチェロはシモーネの誘いを何度も断ろうとするものの、いつも押し切られて損な役割を押し付けられてしまう。この男は「生まれながらの子分肌」なのだ。『ドラえもん』ののび太みたいなものである。すると、シモーネはジャイアンという事になるだろうか。他人には無差別に暴力を振るうが母親だけが唯一の弱点、というのもジャイアンと同じだ。マッテオ・ガローネは『ドラえもん』を読んでいたのだろうか?
マルチェロ自身は真面目なドッグトリマーとして、近所でもそれなりの信頼を得ているのだが、シモーネの強引な誘いを断り切れなかったばかりに、遂には全てを失ってしまう。この破滅の過程に至る、ほとんど狂気とも思えるマルチェロの従順ぶりが本作の見どころのひとつだろう。その姿はまるで忠犬ハチ公の様だ、と犬に例えるのも芸が無いが、とにかく彼はシモーネによって完全に調教されてしまっているのだ。この様な一方的な支配関係を描いた作品としては、埼玉愛犬家連続殺人事件に材を取った、園子温『冷たい熱帯魚』が思い出されるが、『冷たい熱帯魚』同様に本作でも終盤に至り、この支配関係が一気に逆転する様な展開が起きる。
要するに、気の弱そうなおっさんがとことん酷い目に遭った挙句、ブチ切れて極端な暴力に走る、という意味では『冷たい熱帯魚』も『ドッグマン』もサム・ペキンパー『わらの犬』のバリエーションのひとつと言える。しかし、主人公が逆襲する段になると観客も鬱屈した展開から解放され、大なり小なりのカタルシスを覚えるのがこの手の映画の常だが、それに対し本作の場合は少々趣が異なる。確かに、マルチェロは突発的な衝動によってシモーネに対する復讐計画を実行するのだが、『わらの犬』や『冷たい熱帯魚』の様に暴力をきっかけに人格が一変する訳でもなく、最初から最後まで気の弱いおっさんのままなのである。そもそも、彼の復讐計画そのものがこの手の映画としては物足りないというか、非常に微温的な内容なのだ。
従って、本作で印象に残るのは主人公マルチェロの一貫した変わらなさであろう。妻と離婚し、娘ともたまにしか会えなくなった彼は、犬だけが唯一の慰めだった。彼の心を支配していたのは、他者と関係性を取り結びたいという欲求である。彼が周囲に振り向ける愛想の良さも、シモーネに尻尾を振り続ける卑屈な態度も、全て心の底に抱えていた孤独から発しているのだ。
しかし、本作のラストシーンが示すのは彼が暴力によって取り戻したものなど何ひとつ無い、という残酷な事実である。マルチェロは、友の亡骸を抱えたまま、ただ呆然と佇むしかない。本作は、ただただ後味の悪い復讐劇として、ラース・フォン・トリアー『ドッグヴィル』を思い出させる。
あわせて観るならこの作品
「ブチ切れもの」映画の手本となった名作。ちなみにタイトルは『老子』から採った言葉で、映画に犬は出ません。出てくるのは猫です。
園子温の最高傑作だと思います。パッケージ写真からも『わらの犬』を意識しているのは一目瞭然。