事件前夜

主に映画の感想を書いていきます。

マイケル・チャペス『死霊館 悪魔のせいなら、無罪』

ジェームズ・ワンのホラー映画が描いているのは視線に対する恐怖なのだ

現代ハリウッドホラーのキーパーソン、ジェームズ・ワンリー・ワネルは映画学校で出会い、2003年に1本の短編映画を作る。それが、世界中で大ヒットしたシチュエーション・スリラー『ソウ』の原型となったのは有名な話だ。その後も、彼らは『ソウ』シリーズを含めたホラー映画の分野では共作を続けているが、最近では『アクアマン』や『透明人間』など、単独の監督作品で非常に高い評価を得ている。
彼らの作るホラー映画―『ソウ』から始まり『インシディアス』、ソロ作の『死霊館』や『透明人間』も含めて―に必ず共有されているのが「自分が誰かに見られている」という強迫観念である。隠しカメラの向こうにいるサイコキラーも、家に取りついた悪霊もあるいは透明人間も、一方的に「見る」存在としての立場を利用して被害者たちを追い詰めていく。この「見る―見られる」という関係性と、そこから生じる抑圧や恐怖が相互監視社会となった私たちにリアリティをもって迫ってくる事は言うまでもない。そして、こうした視線の暴力性こそが、(カメラを通して被写体を一方的に見る事の出来る)映画の本質でもある。ジェームズ・ワンリー・ワネルのホラー映画に登場する悪霊や透明人間はだから、映画館でスクリーンを見つめる私たちの似姿でもあるのだ。
インシディアス』シリーズと並走するかたちで始まった『死霊館』シリーズは、実在の超常現象研究家ウォーレン夫妻が実際に遭遇した怪奇事件をモチーフにしつつ、次々と派生作品を生み出し「死霊館ユニバース」と呼ばれる作品群を形成するに至っている。シリーズはウォーレン夫妻を主人公とする本編と、呪いの人形アナベルものに代表される番外編のふたつに分けられるが、実はこれまで番外編が6作も作られているのに対し、本編はたったの2作しか存在しない。ずいぶんとバランスが悪い様に思うが、「死霊館ユニバース」は本編の監督をジェームズ・ワンが務め、番外編を若手の監督に任せる、という製作体制だった為、ジェームズ・ワンが『アクアマン』などのビッグ・バジェットに携わり時間が割けなくなった、という事情もあるのだろう。
ただ、「死霊館ユニバース」としてのお約束さえ抑えておけば後は自由に作れる番外編に比べると、本編は「幽霊屋敷もの」としてフォーマットが固まっているのでどうしてもマンネリに陥りやすい。ウォーレン夫妻の遭遇した事件を映画化したのはスチュアート・ローゼンバーグの『悪魔の棲む家』が最初だが、結局のところ『死霊館』はそのバリエーションに過ぎないのだ。そもそも『悪魔の棲む家』だってこれまで29作も続編やリメイクが作られており、『インシディアス』も同じ様な話だから、製作陣もさすがにやり尽くした感があったのかも知れない。
という訳で、本作は『死霊館 エンフィールド事件』以来、5年ぶりの本編新作という事になる。今回ジェームズ・ワンは製作に回り、『ラ・ヨローナ〜泣く女〜』のマイケル・チャベスがメガホンを取った。『ラ・ヨローナ〜泣く女〜』は南米に伝わる怪談に材を採ったシリーズ中の異色作で、『アナベル 死霊館の人形』に登場したペレス神父がチョイ役で登場するものの、それまでの作品とストーリー面での繋がりはない。もしかすると、マイケル・チャペスが新作を監督する事が既に決まっていたので、後付けで無理やり「死霊館ユニバース」に組み込んだのかもしれない。いずれにせよ、『ラ・ヨローナ〜泣く女〜』は特筆すべき点のない凡作としか思えなかったし、ジェームズ・ワンから監督をバトンタッチする、と聞いて正直あまり期待していなかったのだが…
あにはからんや、本作は「死霊館ユニバース」本編の新たな幕開けにふさわしい出来栄えだった。確かに、1作目や2作目の魅力だったあの息詰まる様な緊張感は薄らいだかもしれないが、あんな事を何回も繰り返しても仕方がない訳で、その意味で悪魔憑きホラーと法廷サスペンスを組み合わせるという本作の大胆なアイデアは、シリーズに新しい風を吹き込み「幽霊屋敷もの」の定型を打ち破る事に成功している。前作、前々作はJホラーを参照しつつ、古典的な恐怖映画のスタイルを現代的にアップデートしようとする試みだったが、本作はよりエンターテインメントに振り切った作りで、その意味ではホラー版『ナイトミュージアム』とも称された『アナベル 死霊博物館』からの流れを引き継いでいると言えるだろう。殺人事件の犯人として逮捕された青年が犯行当時、悪魔に取り憑かれていた事を証明すべくウォーレン夫妻が調査に乗り出す、というのが大体の筋書きだが、心霊ミステリーとでも言うべき展開の末、最終的に夫妻は邪悪な悪魔崇拝者と対峙する事になる。映画終盤の息詰まる戦いは何となくアメコミヒーロー映画を想起させ、もしかすると今後「死霊館ユニバース」はMCUの如く、神対悪魔の全面戦争が繰り広げられていくのかもしれない、と思った。

 

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死霊館(字幕版)

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  • べラ・ファーミガ
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シェアード・ユニバース化している本シリーズだが、とりあえず本編2作を観てから最新作に臨んだ方がより楽しめるだろう。ジェームズ・ワンの緊張感溢れる演出も見応えがある。

ナタリー・エリカ・ジェームズ『レリック―遺物―』

あなたの知らない間に、親たちはゆっくりと変質していく

タイトルを見て、ピーター・ハイアムズが昔撮ったクリーチャー・ホラーのリメイクかな?と思った方は悪しからず。日系オーストラリア人の女性監督ナタリー・エリカ・ジェームズのデビュー作は、ジャンル分けすればホラー映画の範疇に入るだろうが、脳みそを喰らって進化する怪物は登場せず、どちらかと言えば同じオーストラリア産のホラー映画『ババドック 暗闇の魔物』に近い。両作ともホラー映画のフォーマットを用いながら「家族」という枠組みが私たちにもたらす閉塞感や鬱屈を描いている。そこに「老い」や「認知症」という切実なテーマを盛り込んだ点がこの映画の面白いところだ。
映画は、郊外で一人暮らしを営む老女エドナが突然姿を消した、という知らせを受け、娘のケイと孫のサムが森に囲まれたエドナの家を訪れたところから始まる。部屋の中は物が散らかり、キッチンには腐った食べ物が放置され、やるべき事を書いたメモがそこかしこに貼られていた。それらはエドナが認知症である事を示していたが、仕事が忙しく母親とは疎遠になっていたケイは、今まで気づかなかったらしい。やがて、エドナは何事もなかったかの様に家に戻ってくる。安心したケイとサムだが、やがてエドナは常軌を逸した言動を繰り返す様になり、奇怪な出来事が起こり始めるのだった―
少し前に『呪われた老人の館』という、老人ホームを舞台にしたホラー映画があった。謎の怪物に襲われ老人たちが次々と命を落とす中、主人公の老女は家族に危機を訴えるのだが、「お婆ちゃん、ボケちゃったねえ」と言わんばかりに誰も信じてくれない。アンソニー・ホプキンス認知症患者を演じた『ファーザー』もそうだったが、認知症(の疑いがある)人物の視点に立つ映画では、日常に現実離れした怪奇が入り込み、それが果たして現実に起きている事なのか、それとも病が生み出した妄想なのか、主人公はもちろん観客にも判断できない。認知症患者の抱える恐怖とは、こうして現実と虚構の境界が曖昧になっていくある種の崩壊感覚なのだ。
では『レリック―遺物―』で起きる怪奇現象はどうなのだろう。これは現実なのか、それとも妄想なのか。確かに、ケイやサムはエドナの家で異常な現象に巻き込まれ、命を脅かされもする。しかし、当のエドナにとってそれは恐怖でも何でもなく、受け入れるべき当然の出来事に過ぎない。本作が特異なのは、認知症であるエドナの視点ではなく、介護者とでも言うべきケイやサムの視点で語られていく点だ。従って、仮に超常現象が妄想の産物なのだとしたら、それはエドナではなくケイやサムが生み出したものと考えるべきだろう。同じ理由で、本作に描かれている恐怖は認知症患者の視点に立ったものではない。自らの親が見知らぬ他人へと変貌していく過程を、ただ何もできずに見守る事しかできない子供たちの恐怖なのである。そして、その恐怖は認知症患者を親に持つ者だけでなく誰もがが共有している筈だ。
私たちは、幼少時代に作り上げた親に対するイメージを大人になっても手放す事ができない。しかし、私たちが独り立ちし、家を出た後も親たちの人生は続いていく。その日々の中で人知れぬ葛藤や苦悩を抱く事もあるだろう。私たちの知らない間に親たちの内面が徐々に変質していくのはむしろ当然な話だ。その変化が認知症という明確な理由によってもたらされたのであれば、まだ納得もできるだろう。しかし多くの場合、人は全く不可解な、他人には窺い知る事のできない理由でそれまでとは全く異なる人間に変貌してしまう。その際、私たちはそれまで信じていた現実が剥がれ落ち、未知の世界が顔を覗かせる瞬間を目撃する。本作のラストに描かれる「脱皮」は、ケイやサムがエドナの真の姿を、そして自分自身の真の姿を発見した事を示しているのだ。

 

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老人ホームが舞台のホラーという変わり種。最後に明かされるオチはいくら何でも安直すぎるが、バーバラ・ハーシー演じるお婆ちゃんは可愛い。

 

ゴア描写も盛りだくさんでそんなに嫌いじゃないです。画面が暗すぎてタブレットや家のTVじゃ何が起こっているのかさっぱり分からないが…

リサ・ジョイ『レミニセンス』

忘却と追憶―「水」の両面性が、登場人物たちの運命を左右する

この映画、予告編や公式サイトでは『インセプション』との類似をほのめかしつつ、クリストファー・ノーランの弟であるジョナサン・ノーラン制作という点を大きくアピールしていて、監督、脚本を務めたリサ・ジョイのキャリアについてはほとんど触れられていない。その為、HBOの大ヒットTVドラマ『ウエストワールド』の製作に携わっていたぐらいの事しか分からないのだが、いずれにせよ本作の堅実な出来栄えは監督、脚本を務めた彼女の手腕によるところが大きいだろう。はっきり言って、映画的な完成度という面では『インセプション』などより数段上である…というと、怒る人がいるかも知れないが、私は『インセプション』を数あるノーラン映画のなかでも一、二を争う駄作と思っているのでご容赦頂きたい。
『TENET テネット』評の中で、私はクリストファー・ノーランが好んで用いるモチーフとして「時系列の操作」と「操り」を挙げた。これらのモチーフは『レミニセンス』でも共有されており、その意味で本作は極めてノーラン的な映画だと言う事ができるだろう。ただ、SF、ミステリー、ラブロマンスと様々なジャンル映画の要素をミックスさせた『レミニセンス』において、ノーラン的なモチーフはミステリー映画としての側面を補強する道具のひとつであり、主題と言えるものではない。私たちは過去といかに向き合い、いかに乗り越えていくべきか、という普遍的な問い(それはコロナ禍以降の世界でより重要さを増したように思える)こそが、本作を貫くテーマであり、シナリオ、キャスト、舞台背景など映画を構成する全ての要素がその為に組み立てられているのだ。
例えば、本作は温暖化によって全ての都市が水没した地球を舞台にしており、一部の富裕層だけが防波堤に守られた高台に家を持ち、ほとんどの庶民は浸水の恐怖に怯えながら日々を送っている。この設定そのものはそれほど珍しいものではない。J・G・バラードの『沈んだ世界』やケヴィン・レイノルズの『ウォーターワールド』など例を挙げればキリがないくらいだろう。この終末SF的な世界観と物語に関連性を見出せないと、ありきたりな設定を持ち込んだだけのSF映画で終わってしまう。本作における「水」はテマティックなモチーフとして読み解くべきであり、それは主題である「記憶」と密接に関りがある。
我が国でも何度も繰り返されてきた水害の例を見れば分かるとおり、水は時に凶暴な牙を剥き私たちの生活を脅かす。猛り狂う水流は私たちの財産や大切な人を流し去り、そこに蓄積されていた筈の時間すら奪ってしまう。「過去」の堆積の上に築かれていた「現在」は瓦解し、やがて私たちは「未来」を夢見る事すら諦める様になっていく。『レミニセンス』の世界に住む人々は抱える絶望とは、時間を奪われた者の絶望なのだ。
だからこそ、人々は記憶を遡り甘美な思い出の中に沈み込んでいく。記憶潜入装置に湛えられた水が「羊水」のメタファーである事は一目瞭然だ。それは私たちを優しく包み込み、疲れ切った心にひと時の安寧をもたらしてくれる。主人公ニックの操る記憶潜入装置が麻薬的な中毒性を有しているのは、それが人々の退行願望を刺激して止まないからである。緩やかに破滅へと向かう世界で、人々はただ甘い追憶にすがって生きていくしかない。
だが、過去が常に私たちを甘美な想いで満たしてくれるとは限らないだろう。本作の主要な登場人物であるニック、ワッツ、メイ、セント・ジョーは皆、自らの過去と向き合う事を恐れ、酒や麻薬に溺れている。水に足を取られているかの如く、過去に囚われ前に進めないでいる彼らの「依存」が、SFミステリーとしての本作の「謎」を生み出していく。
過去を押し流し消し去ろうとする水と、人々を包み過去の世界へと誘う水。その両義性が登場人物たちの運命を左右し、ハッピーエンドともバッドエンドとも取れない、奇妙なエンディングへと逢着する。本作でも引用されているギリシャ神話のオルフェウスは、毒蛇に噛まれて命を落とした愛妻エウリュデケを連れ戻しに死の国へと赴く。無事に妻を救い出す事に成功した彼はしかし、地上へと戻る途中で後ろを死の王ハデスの忠告に従わず後ろを振り返ってしまう。その瞬間、エウリュデケは姿を消し、オルフェウスは絶望のまま死んでいく事になる。ニックはメイにこの物語を語る際、結末をハッピーエンドに変えていた。この行為が、映画のニックの最後の選択の伏線でになっている事は間違いないが、では彼が選び取った運命はハッピーエンドなのだろうか。それともバッドエンドと言うべきなのだろうか。本作の結末は、私たちの倫理観を揺さぶり、居心地を悪くさせる。後味が良いのか悪いのかも判然としないこの曖昧さは確かに『インセプション』に近いかもしれない。

M・ナイト・シャマラン『オールド』

オチの出来不出来に左右されない美点がシャマランの映画にはある筈だ

大傑作『ミスター・ガラス』で自身のキャリアを総括したM・ナイト・シャマランの新作は原点回帰とも言うべき、ラストに驚愕の真相が待ち受けるサスペンス/スリラーである。原作は、ピエール・オスカー・レヴィが著した『SAND CASTLE』というグラフィックノベル。父の日のプレゼンにこの本を貰ったシャマランがその内容にほれこみ、映画化の企画がスタートしたらしい。時間が異常なスピードで流れるビーチに誘われ、急速に身体が老いていく不可解な現象に見舞われた家族を描く、というプロットは原作に忠実だが、そこに映画オリジナルの謎解き要素を盛り込んだ本作は、いかにもシャマランらしいどんでん返しがラストに待ち受けている。
シャマランの映画はいつもそうなのだが、今作もこのオチの評判がすこぶる悪い。いわく「意外性に乏しい」「矛盾が多い」「伏線が無いので唐突過ぎる」云々。現代の観客は「納得できるエンディング」や「緻密に伏線の張られたストーリー」を映画に求めているのであり、シャマラン映画のごとき「取って付けた様なエンディング」や「いきあたりばったりのストーリー」など評価に値しない、という事なのだろう。シャマランは本作について『トライライト・ゾーン』の影響を受けたと公言しているが、本作に限らず彼は常に『トワイライト・ゾーン』の原作となったリチャード・マシスンやヘンリー・スレッサーの短篇小説、奇抜な設定や意外な結末で読者を驚かせるアイデア・ストーリーの持つテイストを長編映画で再現しようとしてきた訳で、それは今も昔も全く変わっていない。その中で『シックス・センス』の様に綺麗にオチの決まった作品が絶賛され、『ヴィレッジ』の様に脱力するしかないオチの作品が酷評を浴びる、という事をずっと繰り返してきたのである(それこそ、パルプ雑誌に掲載されたSFやホラーの短篇小説の様に)。そうした観点から見れば、今作のオチは『ヴィレッジ』に近いのかもしれない。
しかし、本作の大部分が2020年9月26日から11月15日の間、新型コロナウイルス流行下のドミニカ共和国で撮影された事を忘れてはならない。未知のウイルスとの緊張関係の中で作られた本作のラストが、昨今の新型コロナワクチンをめぐる肯定派と否定派の論争―それは論争などと呼べるものではないかもしれないが―を予見していたのは明らかである。少なからず不安を抱きながらワクチンを接種した私たちが、このビーチに迷い込んだ時、その身体はいかなる変容を遂げるのか、あるいは何も起こらずその不安が杞憂だったと証明されるのか、それは誰にも分からないのだ。
と、いうのはまさに私が取って付けただけの解釈であって、シャマランはおそらく、観客をあっと驚かせたいという子供じみた意図しか持っていなかったのだろう。結局、映画のオチなんてその程度のものなのだ。観客の教養や好奇心に応じて幾らでも深読みできるし、単なる与太話に問題意識が込められていると強弁する事も可能なのである。映画のオチを面白がったり馬鹿にしたりするのはもちろん観客の自由だが、オチの出来不出来だけで映画の全てを分かった気になり、評価を下す様な愚だけは避けねばならない。映画とはそれほど単純に割り切れるものではなく、多様な複雑さをはらんだ芸術様式の筈だ。
最後に、私が本作で最も気に入った点を述べておきたい。24時間で一生を終えてしまうぐらいのすさまじい速度で老化が進む人々を映像として表現する場合、VFX技術を駆使して急速に皺が増えたり肉がたるんだりする姿を描く、というのが誰しも考える方法だろう。ビジュアル面での特殊技術が映画のウリになる時代はとうに過ぎ去ったが、それなりの見せ場にはなる筈だ。しかし、シャマランはカメラのフレームイン/アウトという極めて単純なやり方でこの問題を解決してしまう。要するに、カメラが被写体を写していない間に老いが進んだ事にして、身体が変容していく様ははっきりとは見せないのだ(一部、『遊星からの物体X』みたいな人体変形描写が挿入されるが)。その映像的トリックを成立させる為の流麗なカメラワークと的確な構図が、本作に極めて古典的な佇まいを付与している。映画のオチの出来不出来に左右される事のない、その上品さこそがシャマランの映画の何よりの魅力だと、私は思う。

 

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オーストラリアで実際に起きた女生徒失踪事件に材を採った小説をピーター・ウィアーが映画化。シャラマンも本作を意識していたらしいが、確かに少女達を飲み込まんとする岩山の威容は、『オールド』に登場する岸壁と共鳴している。

濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』

テクストを読む、という行為を通じてゆるやかに織り上げられていく物語

本作はカンヌ国際映画祭で日本映画としては史上初となる脚本賞の栄誉に輝いた。原作は『女のいない男たち』と題された、「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」をテーマとする短篇集に収められている。別にこの本に限らなくとも村上春樹はいつも「女性に去られてしまった男たち」を描いてきたと思うのだが、まあそれはいい。以下では、監督と脚本を務める濱口竜介が文庫本にして50頁の短篇小説をどの様にして179分の長編映画に膨らませていったのか、原作小説に沿いながら詳しく見ていきたい。
『ドライブ・マイ・カー』というタイトルから分かるとおり、本作は何よりもまず車の映画であり、原作小説の黄色いカブリオレから変更された赤いサーブ900が東京や広島、北海道を静かに走っていくする姿が何よりも強く印象に残るのだが、サーブの持ち主である俳優兼演出家の家福悠介が、緑内障の影響で交通事故を起こして車の運転ができなくなった為、渡利みさきという女運転手を雇う、というくだりは映画も小説も同様だ。ただ、原作では愛車の修理を依頼した知人に運転手を紹介された、という風に説明されていたのが、映画版では広島で開催される演劇祭の主催者に斡旋された、という風に改変されている。些細な変更点に見えるが、悠介が参加する事になったこの演劇祭というイベントそのものが映画版独自の要素なのだ。悠介はこの演劇祭でチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の演出を任される事になり、映画では芝居の稽古風景や俳優たちとのやり取りに尺が割かれ、そこに送迎を担当するみさきとの車中での会話場面や、悠介の亡き妻、家福音とのかつての生活を描いた回想場面が挿入されていく、という構成になっている。短篇小説という事もあって悠介とみさきの車中での会話劇というかたちを採っていた原作に対し、映画版は登場人物が増え、物語の舞台が広島、東京、北海道にまで広がった事もあり、長編映画のシナリオに相応しくよりドラマッチックな展開が用意されていると言えるだろう。
公式サイトに書かれているとおり、短編小説から映画のシナリオを膨らませるにあたって、濱口竜介は前述の『女のいない男たち』に収録されたその他の短篇、「シェラザード」「木野」のエピソードを物語の中に取り込んでいる。例えば、「シェラザード」は性行為の後に不可解な物語を話す主婦とそれを聞く男の話だったが、その関係性がそのまま悠介とその妻である家福音に投影されている(語られる物語の内容もほぼ同じ)。悠介が音の浮気現場をたまたま目撃してしまう、という展開は「木野」から採られたものだろう。小説版「ドライブ・マイ・カー」の悠介は、妻の不貞を確信していたものの、実際に目撃した訳ではないからだ。「木野」は主人公の木野が妻との離婚を機にジャズバーを開店し、そこで不可解な出来事に遭遇する、といういかにも村上春樹らしい幻想譚だが、小説の最後に木野が漏らす悔恨の言葉が、映画『ドライブ・マイ・カー』では悠介の言葉として使われている。
つまり、小説版「ドライブ・マイ・カー」をベースに「シェラザード」や「木野」のエピソードを象嵌したのが映画『ドライブ・マイ・カー』のストーリーだと言えるのだが、もちろん象嵌とは素材をそのまま嵌めこむ訳ではなく、必要に応じて彫刻や研磨を施し、細部が全体の意匠を形作る様に配置していく事の筈だ。それでは、『ドライブ・マイ・カー』において「シェラザード」や「木野」のエピソードはどの様な細工を施され、どの様にシナリオの中に嵌め込まれたのか。そして、そこから浮かび上がる全体の意匠とは何なのだろうか。
「私」と「他者」の間に広がる暗く深い断裂。その裂けめに架けられた「コミュニケーション」という名の危うくも脆い橋。本作を鑑賞し終えた観客の多くが「私」と「他者」をめぐるこうした困難に思いを馳せた筈だが、もちろん、これは濱口竜介の過去作品も含むあらゆる創作物が扱ってきたテーマのひとつだろう。『ドライブ・マイ・カー』ではそこに他者の言葉をひとつのテクストとして読む、という視点を導入し、テクスト(=他者の言葉)を読んだ者が徐々に変質していく姿を「演技」と捉える事で、演じる事と生きる事をシームレスに繋げていく。これは村上春樹の原作でも描かれていたテーマだが、本作は実際に俳優たちが演技をする映画、というメディアの特性上、より深い洞察がなされていると感じた。
象徴的なのは、上述した「シェラザード」のエピソードだろう。性行為の後、朦朧とした意識の中で物語を紡いでいく音はしかし、翌朝になると自分が何を語ったのかまるで覚えていない。妻の話した内容を記憶しておくのは悠介の仕事であり、夫の記憶を頼りにシナリオを作り上げる事が、家福音という脚本家の創作方法である、と映画では説明されるのだが、つまり音は自分の作り出した物語をありのままのかたちで知る事はできず、それを記憶し語る、夫の言葉として聞かねばならない。当然ながら、その話は夫による改変や省略、といった編集が加えられているかもしれない(実際、映画では悠介が音から聞いた物語を忘れたと嘘をつき、隠蔽する場面がある)。自分の言葉が他者の言葉に置き換えられ、それを再び自分の言葉として書き直す。こうした迂回路を通って家福音の脚本は作られていく。
もちろん、悠介の立場からすれば妻の語る物語そのものが未知のテクストである。その妻が芝居の台詞を吹き込んだカセットテープを車中で聴く事が悠介の習慣となっており、それは音が脳卒中で急逝した後も続けられる。チェーホフの書いた「ワーニャ伯父さん」の台詞を、第三者である妻が読んでいるという意味で、そのカセットテープは二重の意味での他者性を帯びる事になるだろう。録音された声の中には意図的に沈黙部分が設けられており、それが悠介が演じるワーニャ伯父さんの台詞が入る隙間、という事なのだが、この空白に自分の言葉を滑り込ませる事で(これもまたひとつの象嵌である)、悠介は「ワーニャ伯父さん」というテクストを完成させていくのである。他者の言葉を媒介に自らの物語を紡ぎあげる、という意味で家福悠介と音は全く同じ立場にいるのだ。
戯曲というテクスト(=他者の言葉)を台詞(=自分の言葉)として語り直し新たな物語を作り上げていく事。それは「演劇」の本質であり、「ワーニャ伯父さん」の稽古で悠介が執拗に本読みを繰り返すのも、未知のテクストを何度も潜り抜けた先に、自分の言葉が見つかると考えているからだ。初めから「演技」をしようとする俳優の高槻を、だから悠介は厳しくたしなめる。言葉とは、物語とは、何も無いところから不意に生じるものではなく、あくまで他者の言葉との交流の中でゆるやかに織り上げられていくものなのだ。
それは俳優や演出家、脚本家に限った話ではない。他者に囲まれ、自分の姿を見失いそうになっている私たちにも共有されるべき視点である。悠介は「ワーニャ伯父さん」の演出を通じて、妻の言葉をひとつのテクストとして受け入れる事を学ぶ。妻が語った物語、妻が読み聞かせた戯曲だけではなく、何気ない日常のふとした瞬間に発せられた他者の言葉の全てが、私たちにとって未知のテクストなのだ。だから、悠介は音の言葉をチェーホフの戯曲の様に読む事で、自らの言葉を獲得していくだろう。「木野」の主人公の独白(モノローグ)が、『ドライブ・マイ・カー』では悠介とみさきの対話(ダイアローグ)として書き直されている理由もそこにある。その言葉は虚空に吸い込まれるのではなく、他者の胸に届き、そこからまた新たな言葉が生まれてゆく。映画のラストシーンが示しているのは、新たな言葉たちが織り上げた未知の物語の始まりなのである。

 

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別の意味で色々と注目を浴びた作品だが、これもまた「女のいない男たち」の物語だった。

テイラー・シェリダン『モンタナの目撃者』

山火事と消防隊員という魅力的な設定を活かした見せ場のないのが物足りない

深い雪に覆われた山岳を舞台にしたスリラー『ウインド・リバー』に続くテイラー・シェリダンの監督2作目はアンジェリーナ・ジョリーを主演に迎えた、サスペンス映画とディザスタームービーをミックスさせた様な一風変わった作品である。以下、簡単にあらすじを紹介しよう。
森林消防隊員であるハンナは、かつて山火事から子供たちを救えなかった苦い記憶を持ち、自分を責めながら職務を続けていた。彼女はある日、森の中に迷い込んだ少年コナーと出会う。コナーの父親はある汚職事件に関わった為に何者かによって殺され、少年は命からがら森まで逃げ延びてきたのだ。追手たちから少年を守ろうと決意するハンナ。しかし、突然発生した未曽有の山火事が彼女の行く手を遮るのだった―
このあらすじから連想した先行作が私は2つあった。ひとつはジョン・カサヴェテスの『グロリア』。これもマフィアに父親を殺された少年と偶然に知り合った女性の逃走劇を描いた映画だった。もうひとつは、レニー・ハーリンの『クリフハンガー』。こちらは、山岳救助隊員の主人公が雪山の中で犯罪集団と戦うアクション映画である。前者はともかく後者を持ち出したのに違和感を覚える方もいるかもしれないが、要するにプロの犯罪者に対して救助隊員が地の利を活かして戦う、みたいな話を予想したのである。確かに、『クリフハンガー』の主人公ゲイブはシルベスター・スタローンが演じているのでどう見たって只者ではない訳だが、基本的には山岳救助活動で得た経験や知識を駆使して銃器を持った犯罪者に対峙していく。本作のアンジェリーナ・ジョリー演じるハンナにもそうした役回りを期待した訳だ(救助活動の失敗によって人を死なせてしまった過去がトラウマになっている、という設定も似ているし)。
しかし、『モンタナの目撃者』における山火事は『ウインド・リバー』の氷原と同様、あくまでドラマの背景として導入されたに過ぎない。過酷な自然風景と醜い争いを繰り返す人々の荒廃した姿を対比させよう、という作り手の意図は分かるのだが、例えば風向きから火の広がり方を予想して行き先を決めるとか、敵に罠を賭けて火の中に突き落とすとか、そういう山火事と消防隊員という設定を活かしたシチュエーションが全く無かったのは残念である。アンジェリーナ・ジョリーの熱演にもかかわらず、主人公ハンナのキャラクターが今ひとつ立っていないのは、彼女が消防隊員として得た経験や知識がほとんど活躍の場を見せないまま映画が終わってしまうからではないか。
その為か、脇役である筈のメディナ・センゴア演じる保安官の妻アリソンの方が印象に残ってしまった。彼女は身重の体でありながら、悪漢の手から夫を救い出す為に猟銃を片手に馬を乗り回すのだが、このキャラクターが最高に格好いいのだ。おそらくは『女ガンマン 皆殺しのメロディ』のラクエル・ウェルチからインスピレーションを得たのだろうが、正直、このアリソンを主人公にしたスピンオフ作品が観たいと思ったほどである。

 

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ラクエル・ウェルチ主演のマカロニ・ウエスタン風西部劇。全裸にポンチョ、テンガロンハットという女ガンマンの姿が大きなインパクトを与えた。クェンティン・タランティーノの『キル・ビル』にインスピレーションを与えた事は有名。

 

白石和彌『孤狼の血 LEVEL2』

鈴木亮平の演技は一見の価値ありだが、ヤクザ映画としてのダイナミズムに欠ける

本シリーズは柚月裕子の長編小説を原作としているが、映画版2作目『孤狼の血 LEVEL2』は映画オリジナルのストーリーとなった。当初は小説版三部作の第2作目『凶犬の眼』をベースに続編が製作されるとの情報だったが、途中で方針が変わったのだろう。その辺りの経緯について監督の白石和彌は、前作のラストを原作と変えてしまった為に『狂犬の眼』と繋がりにくくなった事、そもそも『狂犬の眼』がヤクザ同士の抗争を描いた作品ではなかった事が原因だと説明している。私は原作小説を未読の為に何とも言えないが、もともと小説版『孤狼の血』は“警察小説×仁義なき戦い”と評されていた。その「仁義なき戦い」成分が薄いのであくまでヤクザ映画を撮りたい白石和彌の思惑にそぐわなかった、という事なのかもしれない。
しかし、じゃあ『孤狼の血 LEVEL2』がヤクザ映画なのか、というと正直よく分からないのである。確かに本作でもヤクザ同士の抗争は描かれているのだが、鈴木亮平演じる上林成浩という、完全に気が狂った男を登場させた結果、ヤクザ映画的な要素が後景に退いているからだ。露悪趣味丸出しの残虐描写は前作同様、いやそれ以上に盛り込まれているのだが、それが前作の様な東映実録ヤクザ映画へのリスペクトというより、サイコホラーのゴア描写みたいに感じられるのである。
おそらく、役所広司演じる大上という悪徳刑事が前作で退場したので、それに匹敵する強烈なキャラクターを用意したかったのだろう。松坂桃李演じる主人公の日岡がどこか線の細さを感じさせるので、その真逆の様な存在を配置し化学反応を起こさせたかったのかもしれない。その意図は理解できるし、上林の狂気に引きずられて一線を踏み越えていく刑事の姿を松坂桃李は上手く演じていたと思う。もちろん、鈴木亮平の演技がとんでもないのは映画を観た方ならお分かりだろう。
しかし、その分ヤクザ映画としての面白みは前作と比べてかなり減退した。個人的な見解だが、ヤクザ映画の醍醐味はドラスティックに変化していく暴力団組織の姿を描く事にあると思う。繰り返される抗争の中で、組織は統合や分裂を繰り返し、拡大あるいは縮小を遂げていく。組同士の力関係も常に推移し、力の衰えた組は他の組に取り込まれるか、いずれ消滅してしまう。その栄枯盛衰の中で本作の上林の様に強烈な個性を持った個人が登場する事もあるだろうが、それはやはり組織の変化を促すひとつの要素に過ぎないのである。
孤狼の血 LEVEL2』に登場するヤクザ達は、幹部であろうが下っ端だろうが、いずれも上林に翻弄される程度の役回りしかあてがわれず、組織のダイナミックな動きによって映画をけん引する様な事は決してない。スクリーン上でどれほど凄惨な暴力が繰り返されようとも、それは上林という男の個性に回収されてしまうのだ。もちろん、組織の論理が全く通用しない無軌道な男の人生を描いた深作欣二の『仁義の墓場』の様な傑作もあるが、本作の上林が『仁義の墓場』の石川力夫と徹底的に異なるのは、彼が幼少の頃に父親から凄惨な暴力を受けていたという、いかにもありきたりなトラウマが用意されている事である。石川にはその様なバックグラウンドは全く描かれず、ただただ現実の不可解さ、理解しがたさを体現する存在としてスクリーン上で大暴れしていた。『孤狼の血 LEVEL2』の暴力描写は、表現だけを切り取ってみれば『仁義の墓場』を超えているかもしれないが、あまりにも分かりやすすぎる。

 

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凄惨な暴力描写が話題を呼んだ前作。猥雑さと純粋さを同居させた役所広司の演技が素晴らしい。

 

深作欣二監督、渡哲也主演の大傑作。三池崇史によるリメイク作もあるが、そちらは未見。